第一章  十六歳になった日

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 事務局長が初老の紳士を案内して処置室に入って来たのは、それから一時間ほどしてからである。  患者は取りあえず病室に移した後の事のことで。今後の治療方針について、脳神経外科医の隠岐医師と、山口医師が話しを詰めている最中だった。  「伊吹(いぶき)幸四郎(こうしろう)と申します」  「祥子さんがお世話になりました」、穏やかな声の初老の紳士は、『伊吹法律事務所』と印字された名刺を差し出しだ。  話の様子では。若園祥子の父親が経営する会社と顧問契約を結んでいる弁護士らしい。病院の事務局長の話では、そうとう有名な弁護士事務所なのだそうで。若園祥子の父親が経営するその会社というのも、何時もテレビコマーシャルで見かける大会社だった。  「お父様の伊豆(いず)明久(あきひさ)氏から、後見人の依頼を受けて居ります。検査の同意書は何処ですかな」  「財界の有名人が父親かぁ」、山口医師は心の中でひそっと呟いた。姓が違うという事は離婚した母方の姓を名乗っているのか・・あるいは私生児か?  山口医師の顔からその思考を読み取った弁護士先生が、情報を追加した。  「祥子さんは依頼人の六番目のお子様で、母親はすでに亡くなっております。ですから私が後見役を務めて居る次第でして」、優し気な笑みを浮かべているが、目が笑っていない恐い爺様だ。  さすがは一流どころの弁護士だと、山口医師は感心した。患者の身元をそれなりに明かしたうえで、この先の治療の責任は伊吹法律事務所が担当すると言い渡した辺り、中々に侮れぬ狸オヤジである。  そんな遣り取りがあった果てに。  若園祥子は、生理機能検査のための入院が決まった訳だが。結局は脳内にも、脳波にも異常は認められなかった。  「そう言う事なら、僕はお役御免だな。後は心療内科の仕事だ」、隠岐医師が手を引いた後で私は、心療内科の女医・有馬(ありま)女史の患者になったのである。 (勿論だが、若園祥子だった昔の記憶を取り戻させるなんて、無理に決まっている。祥子の中身はワタシ・岩村七重なのだから、そんなモノは最初から存在しないのだ)  しかし急きょ、若園祥子の担当になった三浦看護師は真剣だった。たった十六歳で記憶喪失になったばかりか、一カ月で退院して元の生活に戻すと、クソ爺ィの伊吹弁護士から通達がきているのである。  「記憶が無いんですよッ」、激しく詰め寄ったのだが。「それが伊豆明久氏のご意向ですから」の一点張りで埒が明かない。  何とか記憶が戻らないかと、ワラにも縋る想いで。脳に異常が無いと解った日、山口医師と隠岐医師の許可を得て、三浦看護士は若園祥子をあの事故現場に連れて行くことにしたのである。
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