支配

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支配

 数週間前から、男はある症状に悩まされていた。あまりにも奇妙な症状だったため、医師への相談に戸惑った。そもそも、何科に足を運べばいいものか。  その症状に気づいたのは、何気なく腕時計に目をやったときだった。左腕から小さな芽が出ていたのだ。  風に吹かれて飛んできた芽が付着したのかと、ポリポリ掻いてはみたが、その芽が男の腕から消えることはなかった。  そして、症状は男をさらに悩ませた。  気づけば新たな芽が身体から顔を覗かせ、その度に違和感を覚える男。なぜなら、身体だけではなく、感情にも影響が出はじめたからだ。  見ず知らずの他人にいきなり親切にしたくなったり、どうでもいいことで他人を妬んだり、街ですれ違った女性のことを急に愛おしく感じたりした。何よりその感情は、男の意思とは無関係に湧き起こった。  不可思議な出来事の連続に、男は芽と感情の関係を想像してみた。 ――身体に芽が出るたび、意思とは関係のない感情が俺の中に芽生え、それが勝手に俺を突き動かしているのでは?  親切心が芽生えたときには、重い荷物を抱える老人に声をかけ、荷物を持ってやったりした。嫉妬心が芽生えたときには、会社の同僚の何気ない自慢話に、腹の底が熱くなるほど妬んでいる自分に気づいた。  恋心が芽生えたときには、会社からの帰り道に偶然すれ違った女性のことがたまらなく好きになり、女性の自宅まであとをつけていた。下手すれば、ストーカー行為で通報されていたことだろう。  次々に芽生える身体の異変と感情の暴走に、男はただ怯えることしかできなかった。  男の身体に現れる芽は、それぞれが違った色をしていた。もしかしたら、色によって感情の種類が異なっているのかもしれない。男は徐々に芽への理解を深めていった。  ある週末の昼下がり、身だしなみを整えようと鏡の前に立ったとき、頬の辺りに新たな芽が顔を出しているのに気づいた。その芽の色は赤。嫌な予感に胸がざわついた。  次の瞬間、男の理性は何者かに摘まれるようにして消え去った。鏡の前に立つ男の目にはもはや、生気の色はなかった。 ――そういえばアイツ、俺に隠れて男と会ってやがった。アイツのスマートフォンを急に覗き込んだときも、明らかに狼狽しながら、手元を隠しやがったし。きっと俺はアイツに騙されてる。そんな人間は……殺すしかない。  男はキッチンの棚から包丁を取り出すと、それをカバンにしまい、自宅を飛び出した。 「クソがっ! 命拾いしやがって!」  ワンルームマンションでひとり暮らしする男の恋人。ドアの前に立ち、何度もインターホンを打ち鳴らしたが、彼女が出てくる様子はない。どうやら留守にしているようだ。  男の苛立ちはピークに達した。ふと手の甲に目をやると、そこには新たな芽が萌え出ていた。それは、憎しみに染められたような、赤黒い色をした芽だった。 「どいつもこいつも俺のことをバカにしやがって。世界が狂っているのは、人間たちのせいだ。この世に生息する悪しき存在。俺だけが唯一の正義だ。俺がやるべきことは――」  男はカバンから包丁を取り出し、柄を握る手に力を込めた。  恋人のマンションをあとにし、街に飛び出した男は、まるでヒーローのような立ち振舞で、次々と通行人を刺していった。悪を滅ぼし、根絶やしにしていく。そんな使命感が男を完全に支配していた。  繁華街に轟く無数の悲鳴。男の奇行を制止するために、男に飛びかかった者たちも、次々と正義の犠牲になった。 「えっ?」  ふとした瞬間に理性を取り戻した男は、幾人もの人がうずくまる悲惨な光景に言葉を失った。そして、自身の身体に目をやると、さまざまな色をしていた芽たちが、返り血を浴び、ひとつ残らず赤黒く染まっていた。  手には包丁が握りしめられている。その刃は赤く染まり、男の身体は血なまぐさい異臭を放っていた。無意識から現実へと引き戻された男は、自分が起こした凶行に震え、咄嗟に包丁を投げ捨てた。  ――逃げなければ。一刻も早くこの場から立ち去らないと大変なことになる。逃げる? いったいどこへ……?  四方から迫りくるサイレンの音から身を潜めるように逃げ惑い、辿り着いたのはある雑居ビルの屋上だった。 ――もうダメだ。逃げ切れるわけがない。多くの犠牲者を出すほどの罪を犯した俺が許されるわけがない。ここから飛び降りれば楽になる? そうだ、死ぬしかない。もう、死ぬしか……。  呆然と屋上の隅に立ち尽くし、男は泣きわめいた。得体の知れない恐怖が男の感情を破壊し、涙がとめどなく流れ続けた。  目から溢れでた大量の涙が両の頬を伝う。それは幾筋にも伸びる川のように、男の身体を流れていく。そして、赤黒い色をしていたすべての芽たちが涙で洗われ、生命力に満ち溢れた緑色へと、その姿を変えていった。  大勢の警官たちが、雑居ビルの細い階段を駆けあがり、ようやく男が待つ屋上へと姿を見せた。決して広くはない屋上を見回す。 「おかしいですね……男の姿が見当たらない。さっきまでここにいたはずなのですが――」 「飛び降りた可能性は?」 「地上からの報告ですと、その可能性はないとのことです」 「いったいどういうことだ?」 「あれ?」  ひとりの警官が指さした屋上の隅には、コンクリートから生えるには到底ふさわしくない美しい花々が、ひとつの芽も残すことなく咲き誇っていた。
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