7353人が本棚に入れています
本棚に追加
/120ページ
最終話 前編
アリエノールとクロヴィスが、エミリアナと遭遇する少し前のこと。
王城前の馬車止めに停まった二台の馬車から降りてきたのは、まったく統一性のない身なりをした四人の若者。しかもそのうちの一人はクロヴィスに瓜二つだ。
慌てる衛兵に、ユリウスの従者が身分を証明する。
「クロヴィス殿下に急ぎ伝えなければならないことがある。それと急を要する患者を馬車の中に寝かせているので医師を呼んでくれ」
ユリウスの言葉に衛兵は急ぎ城内へと走って行った。
「とりあえず一安心ね……え……?」
「どうしたのリゼット?」
クラリスが問いかけるも返事がない。リゼットの視線は、先に停まっていたある馬車へと向けられている。
「あれは……オリバレス公爵家の家紋……」
「え!?」
磨き上げられた車体には、確かにオリバレス公爵家の家紋が刻まれている。
「大変……お姉さま!」
「ちょ、ちょっと!!」
「リゼット様!」
突然走り出したリゼットを真っ先に追いかけたのはドミニクだ。
「んもぅ!ほんと無鉄砲なんだから!!」
クラリスは馬車の中に寝かせているキリエのことを衛兵に頼むと慌てて二人を追いかけた。
「クロヴィス殿下に無事引き渡すまで、お前たちはしっかりキリエを守れ」
「殿下!?」
そしてユリウスも前を走る三人を追いかけたのだった。
*
王宮内はいつもより人が多く、騒がしかった。だが、行き交う人々をものともせず、まるで暴れ馬のように回廊を駆け抜けるリゼット。
「リゼット!どこに向かってるの!?」
「とりあえずお父様のところ!!」
なるほど。近頃王宮に寝泊まりしているベランジェ公爵であれば、今の状況も把握しているだろう。
それにしてもなんたる駿足。
(ほんとに公爵令嬢なのこの子!?)
ドミニクなど早々に脱落し、今はかなり後ろでひいひい言っている。
「こっちから行くと早いの!」
リゼットがそう言って回廊を曲がった先にいた人物にみんなが目を瞠った。
「お姉さま!!」
「アリエノール!!」
そしてクロヴィスと並び立つアリエノールの前にいたのは
「エミリアナ……」
クラリスの口から漏れ出た名前をリゼットは聞き逃さなかった。
リゼットは更にスピードを上げ、素早くエミリアナの横を通り過ぎると、アリエノールの前に立った。
そして威嚇する猫のようにエミリアナを睨みつけた瞬間その顔が固まった。
(なに?)
なんだか様子がおかしいことに気づいたクラリスがエミリアナの前に回ると、なんとエミリアナは微笑みながら涙を流していたのだった。
*
エミリアナはクラリスの顔をみると少し驚いたような顔をした。
「……あら、クリスじゃないの」
(クリス?)
エミリアナの様子を見る限り、呼び間違えではなさそうだ。それに、クラリスの服装はどう見ても貴族の家で雇われているメイドだ。
一体どういうことなのか。
「どうしたの?ああそうか……私が突然いなくなったからおばあ様に言われて探しに来たのね。怒られたの?でも大丈夫よ。あなたは悪くないってちゃんと言っておくからね。ねえクロヴィス、あなたがよこしてくれたこの子、とてもいい子なのよ。私たちの結婚の準備のためによこしてくれたのよね。うふふ、じゃあこれから一緒にこれからのことを確認しましょうか」
エミリアナは涙の跡もそのままに、力なく言葉を紡ぐ。その姿はとても痛々しい。
「……クラリス様がクリスで、クロヴィス様がエミリアナ様との結婚の準備に派遣された子……?これはどういうことなのですかクロヴィス様」
これ以上隠しても無駄だと思ったのか、クロヴィスはあっさりと答えた。
「彼女にはルカの妹の居場所を探るため、“クリス”としてオリバレス公爵家に潜入してもらっていた」
「ルカの?ですがもし見つかればクラリス様は……!」
間違いなく殺されていただろう。
しかしアリエノールの言わんとすることはよくわかっているはずなのに、クロヴィスから返ってきた答えは一番聞きたくないものだった。
「彼女のしたことをよく考えろ、アリエノール。次期国王たる私の妃となる君を害そうとしたんだ。本来ならその場で切り捨てられていてもおかしくはない」
「それは……!」
「だが彼女にはまだ駒としての利用価値があった。いずれ処刑される彼女は使い捨てたとしてもなんの問題もない駒だ」
反論できなかった。クロヴィスの言う通りだからだ。
「君には私のやり方が受け入れられないのかもしれない。私は己の心に素直に耳を傾ける君を愛おしいと思っているし、君の望むことはすべてそのようにしてやりたいと思う。だが私人としての自分と、王太子としての自分は必ずしも同じではいられない。そしてこれまで王太子の婚約者として生きてきた君には、もうすでにそういう男と添い遂げる覚悟ができていたのではないのか」
自分の甘さを真正面から突き付けられた気がして、アリエノールは今度こそなにも言えなくなってしまった。
クロヴィスの言うことは正しい。
綺麗事だけで国を民を守れた王など存在しない。さらに言えばアリエノールは、クロヴィスの側で近い将来王妃としてその政治手腕を発揮しなければならない時が来る。そしてこの国の安寧のため、時には彼のように冷酷とも思える手段で権力を振るわなければならないのだ。
もし今、アリエノールがクロヴィスならどうしていただろう。
(……やはりクラリス様も、レアンドルもパメラ夫人も、その処罰に私情を挟むことはあってはならない……)
アリエノールは己の未熟さを恥じ、俯いた。
「エミリアナ、君の望みはなんだ」
「望み?そんなの、あなたと結婚することに決まってるじゃない」
「違う。それはオルタンス夫人の望みだ。君は本当に私を愛しているのか?私と共にこの国のために身を捧げる覚悟があるのか。私はこれまで君の口から国の行く末についてなど一言も聞いたことがない。口を開けば出てくるのはいつも“おばあ様が”か“結婚”、もしくは“グランベール王家の尊い血”だ」
「だって……私にはそれしかないんだもの……」
「私と結婚したとして、そのあともオルタンス夫人の干渉は変わらず続く。それどころか今よりもっと酷くなるだろう。君は一生オルタンス夫人に言われるまま生きるつもりなのか」
「だってあなたといれば自由でいられるわ!おばあ様だってあなたには手を出さない!」
「エミリアナ!」
声を荒らげたクロヴィスに少し怯えたような顔をしたエミリアナ。だがその瞬間、穴の空いたようだった彼女の瞳に小さな光がともったのをアリエノールたちは見逃さなかった。
「君がこれまで強いられてきた境遇は、確かに幸せとは程遠かった。だがそれはお互い様だ。一歩間違えば私の人生だってどう転んでいたかわからない。だが私は楽な生き方を選ぶことはできなかった。私には迎えに行かなければならない、なによりも大切なものがあったからだ。そして結果、その想いが私をここまで導いてくれた。もう楽な道を選ぶなエミリアナ。君は耐えることしかできなかったあの頃の幼い君とは違う。自由になるために、今こそ私の力を利用すればいい。幼馴染みの特権で情に訴えてもいい。君が本気なら聞いてやる。そして自分自身の力で、本当の意味で自由になれ」
エミリアナの顔が切なそうに歪み、微笑みが消えた。親に捨てられて縋る子供のような瞳は、さっきまでとはまるで違う。とても無垢だった。
「……そんなの、私にできるわけないじゃない……なにもさせてもらえなかったのよ?考えることすら……今更どうやって生きていけばいいの……お父様はおばあ様のご機嫌ばかり窺ってるし、お兄様たちは面倒なことに無関心だし、お母様は……」
そこまで言って、エミリアナは唇を噛んだ。
*
エミリアナには母親の記憶がほとんどない。
僅かに憶えているのは母親の背中と、エミリアナを守るようにきつく抱きしめられた腕の中のぬくもり。
その顔を思い出せないのは、母はいつもエミリアナの前に立ち、時には腕の中に抱いて祖母から守ってくれていたからだ。
父と母の仲は悪くなく、婚姻を結んですぐに長男も授かり、結婚生活は順風満帆だったという。
しかしそんな生活も、エミリアナの誕生によってすべてが崩れていった。
離れに引きこもり、めったに表に顔を出すことのなかった祖母は、グランベール王家の特徴を色濃く継いだエミリアナの誕生をきっかけに本邸へと戻った。
そして自分がエミリアナのすべてを管理すると言い出したのだ。
これに母親は反発したが、彼女に味方する者は誰もいなかった。
育児に無関心だったという祖母の元で育った父親は、生まれて初めて自分に向けられた関心に気を良くし、母親に向かってエミリアナを祖母へ渡せと言った。
しかし母親は頑として首を振らなかった。
そのせいで祖母から虐げられ、父との関係も悪化の一途を辿るようになった母親は、体調を崩すことが多くなっていった。そしてついに病を患ってしまった母が亡くなるまでの短い間だけが、エミリアナがエミリアナとして生きられた唯一の時間だった。
母の死後、祖母はエミリアナに悲しむ暇も与えなかった。理解できない話を何度も何度も言い聞かせ、泣けば罵声を浴びせ、時には手をあげた。
反抗するより受け入れるほうが楽だと知った時にはもう、自分は誰よりも尊き血の持ち主で、クロヴィスと結ばれて王妃となる運命なのだと思い込んでいた。
クロヴィスに初めて会った日のことはよく憶えている。
あの居丈高で傲慢な祖母がへりくだり、クロヴィスの機嫌を取っているではないか。
胸がすっとした。エミリアナがクロヴィスと一緒にいればいるほど、目に見えて祖母の機嫌は良くなり、エミリアナを叱らなくなる。それに、機嫌がいい間はどんなわがままをいっても許されるようになったのだ。
だがクロヴィスがベストンへ発つと決めてから、再び祖母の機嫌は悪くなった。
ある日、見慣れない少女が祖母の私兵に連れられて来た。
新しいメイドかと思ったが、その表情は恐怖に引きつっていた。やけに気になって祖母に聞いてみたが、答えてはくれなかった。
そしてそれから少しして、クロヴィスの側仕えだった男が祖母を訪ねてきたのだ。名はルカといった。
ルカは周りに人がいようともおかまないなしに喚き立てた。“妹を返せ!”と。エミリアナは咄嗟にあの日見た少女のことだと思った。
なぜクロヴィスの側近の妹を人質に取る必要があるのだろう。
しかし祖母は兵士にルカを取り押さえるよう命令し、周りで話しを聞いていた使用人たちを兵士に斬り捨てさせた。
ルカは真っ青な顔で、使用人たちが殺されていくのを必死に止めようとあがいていた。
しかし祖母は嗤いながら言ったのだ。
『成功すれば返してやる』と。そして大人しく言うことを聞かなければ妹も同じ目に合わせると脅したのだ。
そのすぐあとのこと。国王陛下が倒れたという知らせが国内を駆け巡った。
間違いない。祖母の仕業だ。
再びルカは祖母を訪ねてきたが、祖母は彼に妹を返さなかった。
恐ろしかった。やはりこの人に逆らってはいけない。そして早くクロヴィスと結ばれなければ。その思いは日一日と大きくなっていった。
クロヴィスさえいればエミリアナはあの頃に戻れる。きっとクロヴィスなら守ってくれる。あの日の母のように。
けれど、戻ってきたクロヴィスにはエミリアナじゃない、別の女の噂があった。
アリエノール・ベランジェ。まがい物の王家の血、第二王子レアンドルの婚約者だ。
王宮での騒ぎも聞いていたし、くだらない噂など祖母が手を打つだろう。杞憂に終わると思っていた。
しかし父と王宮に戻ったクロヴィスの元に挨拶に行くと、彼は彼女と結婚する気だという。
信じられなかった。けれど政治的な思惑があってのことかもしれない。悔しいが父の能力はベランジェ閣下に遠く及ばない。とにかく早く祖母に聞かなければ。
だが帰りがけに思いがけず彼女と遭遇した。クロヴィスが部屋から顔を出した時の彼女の顔を見た瞬間、考えるより先に言葉が出ていた。
『もう、クロヴィスったら相変わらず神経質なんだから』
無意識に牽制していたのだ。だって彼女のクロヴィスを見る目は……これはただの政略結婚なんかじゃない。彼女はこんなに幸せそうな顔をして、エミリアナの唯一の希望を奪おうとしているのだ。父が隣にいなかったらきっと我を見失っていた。必死に自制したが、身体中の血が沸騰し、逆流するかと思った。
家に帰ってからも、翌日になっても気持ちは収まらない。気づいたら手は勝手に文字を書き、翌日には全身にクロヴィスの色を纏い、屋敷を飛び出していた。
祖母にも許可を得ずなにかをしたのは初めてのことだった。
『クロヴィスの婚約者を辞退して頂きたいの』
ひとたび声に出すと、そこから次々と脅迫めいた言葉が口から出ていった。
だがアリエノールから返ってきた答えはエミリアナの心をこれ以上ないほどに抉った。
『わたくし達は未来を約束しました』
(未来……?)
ベランジェ公爵邸を出て、自室に戻ったあとも、エミリアナの頭の中にその言葉がぐるぐると回り続けていた。
クロヴィスが未来を約束した。未来とはなに?いくら考えても答えは出ない。
エミリアナには未来というものがわからないから。
でもクロヴィスといればわかるはずなのだ。
再びクロヴィスの元を訪れると、彼はひどく疲れた様子だった。けれど自分なら支えてやれる、いや、彼を支えられるのは尊い血を持つ自分しかいない。
『私たち結婚しましょうクロヴィス。大丈夫。政治のためにアリエノール様を妃に迎えなければならないというのなら、私も拒まないわ』
すると彼は“そうだな”と答えてくれた。やはり彼も同じ気持ちでいてくれたのだ。
気分が高揚し、エミリアナは矢継ぎ早に“未来”についてたくさん口にした。
結婚したら宮殿をどうするか。入宮はいつにしようか……。ほらどうだ。クロヴィスといればこんなにも未来が想像できる。
(だから、あの女は消さなければ……)
やっと手にする未来という名の希望を脅かす存在などいらないから。
それから王宮に勤める人間を買収し、クロヴィスの行動を監視させた。
そしてクロヴィスがアリエノールに花を贈ると聞き、すぐさまそれを毒のあるスズランに変えさせた。仲違いの一因になればいいと思った。そして誤って口に入れば尚いいと。
だが、それがベランジェ公爵邸に届くことはなかった。なにかがおかしい。だが阻止した人間が誰なのかを掴むことはできなかった。
そしてそのあとすぐ、結婚準備のためにとクロヴィスがメイドをよこしてくれた。
おばあ様はとても喜んだ。普段なら信用できないものは決して雇わないのに、笑顔で屋敷の中に迎え入れた。クロヴィスの心配りのおかげでおばあ様はずっとご機嫌だ。
なにもかもうまくいっている。これもすべてこの身に流れる血のおかげ。なにも心配することなんてない。なにも。
だが、念のため見張らせておいたアリエノールが王城に向かったと知らせが来た。
頭の中で警鐘が鳴った。
押し込めてきた疑問が一気に噴き出した。
“クロヴィスは嘘をついているのでは?”
でもすぐにその考えを押しやった。そんなことない。私たちは唯一無二の相手なのだから。
けれどたった今、その考えも、祖母からずっと言われ続けてきた言葉も、すべてが妄言で虚構なのだという現実を突き付けられた。
アリエノールを見つめる熱を持った瞳。朱に染まる目元。
そんな視線、エミリアナは一度もクロヴィスから向けられたことがない。
視線だけじゃない。抱きしめられたことだって……。
頭のどこかでクロヴィスと自分は同じだと思っていた。考えも、思いも。けれど違う。
クロヴィスはこの国を守るため、一度すべてを自分から切り離した。無責任だという世間の謗りも相手にしなかった。
戦うべき敵の姿がはっきりと見えていたから、王太子という地位が足枷になることがわかっていたのだ。
では自分は?
クロヴィスが必死だったこの十年、彼の妻になると信じ続けた自分はなにをしていた?
祖母と一緒に旅行気分でベストンに行き、それ以外は日がな一日美しさを磨いていただけ。
そんな女をクロヴィスが、ただ同じ血が流れているという理由で選ぶわけないじゃないか。
こんな年にもなってなんておめでたいのだ……自分は本当に愚かな女だ。
同じ血を受け継いでいるのに、エミリアナはただの出来損ないだ。
最初のコメントを投稿しよう!