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 その頃王城は慌ただしさに包まれていた。  沈黙を貫いていたパメラ夫人が、自身にかけられている嫌疑について証言をすると申し出たことにより、各所から必要な人員が緊急招集されたのだ。  集められたのは、クラリスの裁判も担当した白ひげの裁判長グウェナエル・ダカン。それに国王フィリップとクロヴィスがそれぞれ選任した者たちと書記官だ。  退室を促されたレアンドルだったが、彼は証言する母親を側で見守りたいと願い出た。グランベールに長く仕える重臣たちは、揃って反対をした。親子で口裏を合わせるためなのではないかと懸念したのだ。  しかしそんな彼らに対し、矢面に立ったのはクロヴィスだった。  クロヴィスは立ち会いを許可するかわり、レアンドルには一切の発言を禁止することを約束させた。そしてパメラ夫人からは見えない位置に座ることも。  それでも臣下たちは納得がいかない表情をしていたが、クロヴィスに逆らうのは得策ではないと気づき、最後は拍子抜けするくらいにあっさりと引き下がった。  そしてアリエノールは、パメラ夫人とレアンドルに心からの感謝を告げ、クロヴィスと共に宮を出たのだった。  「……雨が降ってきましたね……」  クロヴィスに手を引かれ、回廊を歩いていたアリエノールは、庭園に植えられたスズランの葉に雨粒が落ちていることに気づいた。来たときは真っ青だった空が、いつの間にかどす黒い雲に覆われている。今はまだ小降りだが、雲の様子を見る限り、これから荒れそうだ。  「今夜から私の部屋で暮らすのだから、帰りの天気を心配する必要もない。そうだろう?」  美しいグリーンアイが、アリエノールの心をもう一度確かめるように見つめている。  公爵邸には帰らないと彼に告げたのは今朝のことなのに、色々あったせいですっかり忘れていた。  いつの間にか腰に回されていた腕に引き寄せられ、アリエノールの身体はすっぽりとクロヴィスの胸の中に収まった。    「……君はすごいよ。自分に関わる人間の心を次々と動かしていく。私では到底真似できない手段で、あっという間にパメラ夫人からの証言を取り付けた」  確かにアリエノールがやってのけたことではある。しかし、これまでの自分では不可能だっただろう。  「……すべてはあの日、レアンドル殿下から婚約解消を言い渡されたあの日から始まったのです」  色んなことがあった。別れて、出会って、痛めつけられて、裏切られて、苦しんで……。  どれもつらかった。けれど、その気持ちを知らない方がよかったなんて思わない。  「どれか一つでも欠けていたら、駄目だったかもしれません。ここに辿り着くまでに起こった出来事は、すべてこの日のためだった……今はそう思います」  クロヴィスとの出会いはもちろん、レアンドルもクラリスもパメラ夫人も……周りにいるすべての人がアリエノールをここまで導いてくれたのだと、素直にそう思える。  アリエノールはクロヴィスの背に手を回し、厚い胸板を力いっぱい抱き寄せた。  「私は自分自身でこの腕の中を選んだんです。だから、誰にも渡さない。でも……」  「でも?」  「もし、もう一度クロヴィス様が私の心を踏みにじるようなことをしたのなら、その時は躊躇せず離れます」  痛みや苦しみに耐えた先に掴む幸せだって素晴らしいものなのだろう。耐えなければならない状況だって十人十色、様々なものがある。だからそれ自体を否定するつもりは決してない。  けれど、そもそもクロヴィスが幸せにしたいのは誰なのだ。アリエノールだと言うのなら、本人が受け入れることを望んだのならまだしも、なにも知らされず、望まない苦しみを与えられた末に手にする幸せは、果たして心の底から“幸せ”だと言えるのだろうか。  「……結果が同じなら、そこに至るまでの過程はどうでもいいと思っていませんか?けれど私はクロヴィス様と夫婦になるのであれば、そんな関係は望みません」  今までは与えられた幸せの中で、周りを満足させるためだけに生きてきた。  「けれどクロヴィス様を愛してしまったから。だから今の私は、あなたを満足させるためじゃなく、自分が満足しなければ気が済まない欲張りになってしまったのです」  だからもう、いい子で待ってなんかいられない。  「守られて、抱きしめられて満足していた子どもの頃とはもう違います」  そしてクロヴィスも、十分な力を持たず命を狙われ続けたあの頃とは違う。  今回のことでよくわかった。きっと彼はこの先も、必要があれば汚い手段を平気な顔で使うだろうし、時にはアリエノールに対し嘘だってつくだろう。  しかし彼の辿ってきた人生を思えば、そんなやり方を一概に否定することはできない。この先彼の妃となるアリエノールにだって、そのやり方を真っ向から批判する権利はない。  だが彼は、アリエノールについた嘘で自分自身をも苦しめた。愛情深い人だからだ。  だから、これからはなんでも話してほしいだとか、二人で支え合ってだとかいうよくある台詞を言いたいんじゃなくて  「自ら苦しみを……そして孤独を引き寄せるようなことだけはやめてください。国を民を導くのはあなただけの責務ではありません。それは私達二人の責務であり、役割なのです。だから、あなたには私がいるのだから、クロヴィスという一人の人間の幸せを決して軽んじないで」  返事を聞きたいとは思わなかった。だってこれはお願いじゃない。誓いのようなものだ。誓いとは神聖で、決して違えてはならないもの。  「……ほんとに君は……」  困ったような声とため息が、クロヴィスの胸に顔を埋めたままの、アリエノールの旋毛のあたりに落ちてきた。    「わかった……約束するよ。それに、心配しなくても今夜は子供の頃のように胸に抱いて眠るだけなんてことはしない。いいね?」  “君が望んだんだ”  耳元でそう囁かれ、ひどく甘い痺れが身体中を駆け巡る。  そしてクロヴィスは、アリエノールから少しだけ身体を離すと、その手を取って口づけた。  手の甲に触れた唇はとても熱い。  「行こうか」  促され、足を踏み出そうとした時だった。  「なにしてるの、クロヴィス」  抑揚のない声が、やけにはっきりと回廊に響いた。  声のする方に顔を向けると、そこにいた人物にアリエノールは思わず目を瞠った。  声の主はユリウスに引き止めてもらっていたはずのエミリアナだった。  「……エミリアナ」  ゆっくりと名前を口にしたクロヴィスから、動揺は感じられない。いっときは恋人のように振る舞っていたあの姿からは考えられない冷静さだった。  「なんでその子を抱いていたの?なんで手に口づけたの?ねえなんで?」  いつから見ていたのだろう。その声は不自然に上擦り、穴の空いたような不気味な瞳がアリエノールたちを映している。  クロヴィスとアリエノールは寄り添ったままエミリアナと向かい合った。  「エミリアナ」    「ああそう……もしかして、切り捨てる前に遊んでみたかったの?あなたったら本当に仕方のない人ね。でもいいわ。浮気くらいなら許してあげる。ふふ、でももうだめよ?だって、あなたが王太子の指名を受け次第わたしたちは婚約するし、もうすぐ宮の建築も始まるんだから」  エミリアナはクロヴィスの言葉を遮って、さっきまでとは打って変わったように、未来のことを楽しそうに語る。その姿は、彼の物分かりの良い恋人として、本心から言っているようだった。  「エミリアナ、オリバレス公爵家を国王陛下の毒殺未遂の容疑で取り調べることになった。もちろん君もだ」  しかしクロヴィスの言葉に、エミリアナはキョトンとした顔で疑問を口にした。  「あら、どうして?私には関係ないわ。そうでしょう?」  (関係ない……?)  ルカの妹を拐い、国王陛下を毒殺しようと企んだだけじゃない。クラリスを使ってレアンドルを陥れ、さらにアリエノールを脅した。  陛下の毒殺未遂についてはともかく、その他のことについては、エミリアナだってまったく知らなかったわけではあるまい。  「だって私はクロヴィスと結ばれるためだけに生を受けたのよ。クロヴィス、あなただって言ってくれたじゃない。“そうだな”って。だから、それ以外のことは私にはなんの関係もないわ」  落ち着いていたはずの嫉妬心に再び火がつきかけて、アリエノールは鼻から深く息を吸い込み、自身を落ち着かせた。  その様子に気づいたクロヴィスはアリエノールの身体をそっと抱き寄せた。  「アリエノール。先に私の部屋に行っていなさい」  クロヴィスはそう言うと、少し離れてついてきていた護衛に目配せをした。そして急いで駆け寄った護衛にアリエノールを託そうとする。  しかしこれをアリエノールは強い口調で断った。  「行きません。ここにいます。黙って待つなんてもう嫌です」  そしてしっかりと見せてほしい。二人の関係を。これまでクロヴィスがエミリアナをどう思ってきたのか、その真実を。  アリエノールに一歩も引く気がないことを理解したクロヴィスは、改めてエミリアナと向き合った。するとエミリアナは満面の笑顔で彼の前へと近づいた。  「ねえクロヴィス、私いいことを考えたの。あなた今とても大変な時期でしょう?ほら、目の下の隈だってこんなに……だから、今日から私も王宮に住まいを移して、あなたの補佐をしてあげるわ」  ずっと自邸に引きこもり、実際の政務など見たことも経験したこともないエミリアナに、一体なにができるというのだろう。  「大丈夫よ。私たちの身体に流れるこの血さえあれば、すべてがうまくいくの。昔からそう言ってきたでしょう?そしてあなたはその血の持つ力によってこの国を救い、王太子の座に返り咲くことができた。だから感謝しなくちゃね。なによりも尊いこの血に」  その言葉にはなんの熱も感じられない。まるで、あらかじめ刷り込まれた言葉を復唱しているようだった。  クロヴィスが今立っている場所は、間違いなく彼自身の力で勝ち取ったものであり、王家の血などという馬鹿げた力のせいではない。  それくらいのことは子供だって理解できる事実だ。  しかし、エミリアナの持つクロヴィスと同じグリーンアイはどこまでも空虚で、同じなのにまるで違うものに見える。そして彼女の目の前にいるのはクロヴィスで、当然その瞳に映るのは彼のはず。だがエミリアナが今その瞳に映しているのは、間違いなくクロヴィスではない。  「楽しみね。だって私とあなたの間に生まれてくる子は間違いなく完璧よ。おばあ様がそう教えてくれたもの。おばあ様の言うことさえ聞いていれば、私は幸せになれるの」  うふふ、と無邪気に笑うエミリアナは、まるで幼い少女のよう。  (壊れてる……)  エミリアナが、半ば強引にベランジェ公爵邸を訪れた時に感じた、あの得体のしれないものの正体はこれだったのだ。  「君と結婚する気はないと、幼い頃からずっとそう告げてきた」  「あらやだクロヴィスったら!もう、恥ずかしがることなんてないのよ。男の子は恥ずかしがりやなのよね。だから、照れ隠しにそう言っていたことくらい知ってるのよ。おばあ様がそう教えてくれたわ」  「照れ隠しではない。それにもし、私が君を愛していたのなら、なんとしてでもオルタンス夫人の側から引き離していた」  「あら、どうして?」  「その訳は君が一番よく知っているだろう 。だが私は事情を知っていながら、もしもの時に利用するために、君を助けることも突き放すこともしなかった。……オルタンス夫人を捕らえるために君の気持ちを利用して、最低な手段を使ったことは謝罪させてくれ。すまなかった」  クロヴィスの横顔は真剣そのものだ。  しかし、それでもエミリアナの顔は微笑んでいた。    「だめよ。だってあなたと結婚しないとおばあ様に叱られてしまうわ。暗いところに閉じ込められて、しばらく食事も食べさせて貰えないかもしれない。お水だって飲ませて貰えないかも」  「そんなことはさせない」  「いいえ。だってだってそう……とってもひどい目にあわされてる。おばあ様は恐ろしい人よ。ねえクロヴィス。私、あなたがどうしてもって言うのなら、その女を愛妾にするのを許してあげるわ」  (……?)  そしてエミリアナはアリエノールを指差した。  「ねえアリエノール様、あなたからもクロヴィスに言ってちょうだい?私たち、色々あったけどこれからは仲良くしましょう。ねえクロヴィス、アリエノール様もお迎えしなきゃいけないのだから、私との式を早めましょう?そうすれば私……!」  そこまで言って、エミリアナの頬を涙が伝った。だが表情を見る限り、彼女はそれがどうしてなのかわかっていない。  間違いなくエミリアナは壊れている。  けれど、ほんの少し残されている彼女自身の心はきっとわかっているのだ。  “そうすれば私”のあとに続く言葉はおそらく“おばあ様の支配から自由になれる”。  グランベール王家の色を持って生まれてきてしまったばかりに、オルタンス夫人に支配されたエミリアナの人生。  その中で、きっとクロヴィスといる時間だけが、彼女の心に自由を与えてくれていた。クロヴィスといれば自身を肯定して貰えた。  人は自由がなければ生きられない。自分を肯定できなければ辛い。  微笑みながら涙を流す、このちぐはぐな心を抱えた大きな少女にとって一番の不幸は、その自由を与えてくれる唯一の存在が、オルタンス夫人の最も執着する人間だったということ。  “可哀想”などと軽々しく同情するのは、エミリアナを侮辱しているようで嫌だったが、それでも彼女のこれまでの境遇を思うと切なかった。  一体どうすればエミリアナを救ってやれるのだろう。アリエノールには答えを見つけることができない。  (どうしたらいいの……)  「お姉さま!!」  「アリエノール!!」  王宮中に響くようなけたたましい叫び声がした回廊の先に目を凝らすと、こちらに向かってすごい勢いで走ってくる集団がいた。  「あれは……リゼットと……クラリス様!?」    
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