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3
ベランジェ公爵家の別荘は、ベストンの港町から少し離れた遠浅の海辺に建っている。
「潮の香りがする!」
海が近付くにつれリゼットはそう言ってはしゃいだ。
「ふふ、本当……子供の頃に来て以来だわ」
『アリエノール、どうか僕と結婚して欲しい』
跪き、真摯な瞳を向けてくれたレアンドル。
王族の申し出を断る選択肢などない。
だから彼のその一言のために、アリエノールは十年もの歳月を国のため、王家のために捧げなければならなかった。
子供らしい遊びなどした事もない。
行ったこともない外国の言葉を覚えさせられ、常に教師に監視され、気を抜く事など許されぬ日々。
比喩でなく、血の滲むような努力を重ねてきたアリエノール。それなのにレアンドルは教養も品性も無い、他人の手垢が身体中にこびりついているクラリスを選んだ。
(知ってるのかしら)
アリエノールが婚約解消を言い渡された、あの場にいた御婦人の半数以上は、クラリスにパートナーを誘惑され、時にそれ以上の事をされた者ばかり。
けれどレアンドルは流されやすい。
自分に擦り寄る者の甘言に、すぐ耳を傾け信頼するきらいがある。
幼いあの日、アリエノールに婚約を申し込んだのも、どうせ母親にいいように言われたからだろう。
素直と言えば聞こえは良いが。
(騙されやすい人でもある)
それにしてもたいした後ろ盾のないレアンドルにとって、ベランジェ公爵家の威光がどれほどのものか。それがわからぬほど彼も馬鹿ではないだろうに。
(でも、だからこその“婚約破棄”じゃなく“婚約解消”なのかしらね)
ベランジェ公爵家を敵に回したくないという本音が透けて見える。
こんなことで陛下は大丈夫だろうか……
「……さま……ノール姉様……お姉様!」
ぼうっとしていたところにリゼットの大声。
アリエノールは我に返る。
「もう!またあのぼんくら王太子の事でも考えてたの!?」
「リゼット、ぼんくらって……」
「だってぼんくら中のぼんくらでしょうよ!もうあんな奴のために時間を無駄にするのはやめよ!やめ!」
「そうね」
リゼットの言う通りだ。
これからは国のため、王家のためじゃない。
自分自身のために生きて行かなければ。
「お嬢様方、着きましたよ」
御者の声がして、扉が開く。
「うわぁ!」
二人、声を上げたのは同時だった。
どこまでも続く青い海が、陽の光を反射して煌めいている。
目の前に広がる光景に、思わず感嘆の声が漏れた。
「素敵……」
アリエノールはまるで海に魅入られたように、しばらくそこから動かなかった。
*
夜、食事を済ませて部屋に戻ると、柔らかな波の音がバルコニーへとアリエノールを誘う。
そこには昼間とは違って月の光に照らされ輝く海。アリエノールは再び目を奪われる。
(行ってみたい……)
寄せては返す波に触れてみたい。
昼間は焼けて熱いだろう砂浜を、裸足で歩いてみたい。
気付いた時にはもう、アリエノールの足は外へ向かって歩き出していた。
「すごいわ……」
周りが暗闇のせいだろうか。
視界を邪魔するものは何もなく、ただ目の前の海だけが眩いくらいに輝いている。
アリエノールは履いていた靴を脱ぎ捨て、波打ち際へと寄った。
「きゃっ!」
寄せる波が白く小さな足を濡らす。
少しだけ冷たい海水に驚くも、喜びの方が勝った。アリエノールは、周りに誰もいない事を確認してからスカートを捲り上げ、更に数歩前に出た。
海水は足首を濡らし、楽しくなったアリエノールはもっともっとと、まるで海に誘われるようにして前へ進んだ。
「それ以上は危ないよ」
(えっ……?)
急に掛けられた声に驚き振り向くと、そこには一人の青年が立っていた。
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