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 リゼットの口から飛び出した“婚前旅行”という言葉に周囲はざわついた。  「わ、わたくしは、決してそのような言い方はしておりませんわ!」  確かに口にしていた自身の発言を慌てて否定するクラリスに、まるで“逃がすものか”と言うように、被せるようにしてリゼットは言った。  「いいえ!わたくしは姉のことがとても心配でした。けれど、会食の場にわたくしが同伴することをレアンドル殿下はお許しにならなかったのです。何故だと思いますかクロヴィス殿下?」  クロヴィスにと言うよりは、会場の貴族達に訴えかけるようにして話すリゼット。  この問いに、察しが良い人間ならばレアンドルとクラリスが、聞かれては都合の悪い話しをするためだとすぐに気付いただろう。  「ですから、会食が行われるレストランの隅に隠れて様子を見守っていたのです。間違いありません。確かにクラリス嬢はそう仰いましたわ!」  これで謝罪するためにベストンを訪れたというクラリスの説明は崩れた。    「そしてレアンドル殿下は、姉に……姉に、自分の愛妾になれと仰ったのです!」  “自ら婚約解消を申し出ておいて、一体どういうことだ!?”  “ベランジェ閣下の愛娘を愛妾になどと……正気の沙汰ではない!!”  皆が口々に騒ぎ立てる。    「そしてクラリス様は、政務は姉が最も得意とすることだから、自分の代わりにやってくれと仰った。それだけではありません。汚い仕事は得意分野だろうと姉を罵ったのです!そして更に、レアンドル殿下は姉の意見など聞きもせず捲し立てました。姉との間に子が生まれても、王位継承権は与えないと。その旨が記してある書類にサインしろと!」  「ち、違うわ!私達はそんなこと言ってない!クロヴィス様誤解です!リゼット様、少し興奮しすぎですわよ!」  しかし許可なく意見を挟んだクラリスに、リゼットはきつい言葉を浴びせた。  「無礼者!わたくしは公爵家の人間ですよ。意見があるならわたくしの許しを得てから喋りなさい!」  「っ…!」  クラリスの顔が醜く引き攣る。  どれだけ男を誑かそうが、それがたとえ王太子であろうが、クラリスが決して越えられない壁。それが身分だ。  上からものを言われる感覚に、抑え込んでいた妬み嫉みが少しずつ顔を出そうとする。  「そして最後は……クロヴィス殿下も実際にご覧になられましたね?」  クラリスに嘲笑われ、美しい瞳に涙をいっぱいに溜めて耐えるアリエノールの姿。  「ああ……あの時のアリエノールの顔……思い出すだけでも辛いよ。さてクラリス嬢。これで真相がわかった訳だが……何か申し開きがあるなら聞こうじゃないか」  「お待ち下さい!」  そこに、恰幅の良い中年の男性が、やけにふてぶてしい態度で割って入って来た。  男は周りを待たせているにも関わらず、ゆっくりした足取りでクラリスの横までやって来ると、大袈裟に手を広げ声を張り上げた。  「おおクラリスよ、こんな目に遭わされて可哀想に!」  「お父様!」  クラリスの目から一時は引っ込んだ涙が再び噴き出した。  その男は、娘に負けず劣らず悪名高い、アダン子爵ことゴーチエ・アダンだった。  「久しいな、ゴーチエ」  クロヴィスはにこりともせずゴーチエの名を呼んだ。  ゴーチエもまた、不遜とも取れるような態度でクロヴィスに礼をする。  「お久しぶりでございます、クロヴィス王子。本来なら昔話の一つでもしたいところでございますが、そうも参りません。娘に対するこの仕打ちは一体何故でございましょう?」  ゴーチエの、その被害者然とした態度。  リゼットは再び腸が煮えくり返るのを必死で堪えた。    「お前、今の話を聞いていたのか?聞いていて尚、アリエノールに対する娘の態度に問題が無かったと?」  ゴーチエは、下品な咳を一つして再び口を開く。  「失礼ながら……長く王都を離れていらした殿下がご理解されるには、この問題は少し複雑でございます」  「複雑?」  「はい。そもそも今回の事は、アリエノール様の、王太子妃としての資質に問題があったからこそ起きたことでございます」      
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