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 (危ないって……海が?)  どちらかと言うと、夜に声を掛けてくるあなたの方が、よほど危なそうなのですが。とはさすがに言えなかった。  だが、アリエノールの表情から、青年は何かを察したのだろう。  「……私は危険な者ではない。けれどこんな夜中に女性一人で出歩けば、そのうち危険な者にも遭遇するだろう」  港町は国外からの船員も出入りする。中には荒っぽい者も多い。何か問題が起こったとしても、船で国外へ出られてしまえば泣き寝入りするしかない。  青年はそう言うと、波打ち際に置かれたアリエノールの靴を拾い上げ、中に入った砂を落とした。そしてそれを“ここまで”とでも言うように、揃えて砂の上に置いた。  「それ以上行くと、君のようにか細い女性は波にさらわれてしまう。だからここまでにしておいた方がいい」  確かに。気付けば脛のあたりまで海水に浸かっていた。スカートを捲りあげていた事にも気付き、アリエノールは顔を赤くしながら、いそいそと彼の言う安全なところに戻る。   「ここなら波も少し届くだろう」  「……すみません。つい、嬉しくて」  はしゃぎすぎてしまった。今までの自分からは考えられない事だ。  無邪気に笑う事も、心のままに振る舞う事も、すべて禁じられてきたから。  「海は初めてなのか?」  「……遠い昔に来たのが最後です。それからは、どこにも行けなかったから……」  けれど、私が王宮に縛り付けられている間も、レアンドルは隠れて他の女と遊んでいた。  私のこれまでの犠牲は、一体何のためだったのだろう。  「海がこんなにも綺麗だなんて、感動してしまって……足に水が触れた瞬間、何だかとても自由になれた気がしてつい……」  そのまま波にさらわれようとでもしていたのだろうか。自分でもわからない。  でもあの瞬間。寄せる波に、冷たい海水に、とても自由を感じた。  「君は……」  「え?」  青年は眉を寄せ、アリエノールの顔をじっと見つめている。  (何かしら……)  もしかしてどこかで顔を合わせた事でもあるのだろうか。王太子の婚約者だったアリエノールは、これまで様々な式典に出席してきた。  ベストンを公務で訪れた事はなかったが、昨今はゴシップ誌にも似顔絵が載る。何かの折に顔を見られていても不思議はない。  しかし青年の、シャツ一枚という今の装いからは、彼の身分がどの程度なのかをうかがい知る事は出来ない。  貴族なのか、平民なのか。  (でも……まるで気圧されるような品があるわ)    「しばらくこの街へ?」  「は、はい。ひと月はいる予定です」  「そう。それなら街へ行ってみるといい。いい気分転換になる」  もちろん街には行くつもりでいたが、なぜ青年はアリエノールに気分転換が必要だと思ったのだろう。  「これを」  ハンカチを差し出され、アリエノールは戸惑った。  「靴を履く前、足を拭くのに使うといい」  「で、でも……!」  返そうにも名前も素性も知らない相手だ。  しかし青年は、いつまで経っても受け取らないアリエノールの手に、そっと優しくハンカチを握らせた。  「悪いと思うなら洗って返してくれればいい」  そう言って青年は砂浜を歩き出した。  「君も早く帰りなさい」  それだけ言い残して。  
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