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6
「すみません……」
教会の前で、アリエノールは平身低頭、さっきの出来事を青年に謝っていた。
姉と話す麗しい青年を見てけたたましい叫び声を上げたリゼットは、二人の繋がれた手元を見た瞬間、打って変わったように冷静になり、アリエノールと青年の顔を交互に見た。
そして、ろくでもない事を思いついたのが良くわかる、ニタついた黒い笑みを浮かべたのだ。
『お姉様!私先に戻りますわ』
『え?じゃあ私も……』
『いいえ!』
若干食い気味に拒否するリゼットに、嫌な予感しかしない。
そしてリゼットは青年に身体を向けた。
『どこのどなたかは存じませぬが、姉の事をよろしくお願いできますか?私急に具合が悪くなってしまって……』
よよよ、と売れない俳優もびっくりするほどの、胡散臭い演技を披露しだした妹に、アリエノールはただただ絶句する。
そもそも具合の悪い人間がここまで上って来る事は不可能だ。この階段が何百段あると思っているのか。
しかしリゼットは二人に口を挟む隙を与えずに、“では!”と、一人階段を駆け下りて行ってしまった。
そしてやはりと言うべきか、教会の前に停まっていたはずの、乗ってきた馬車ごとリゼットは消えていた。
(……素性もわからない男性に姉を預けるって……)
アリエノールは懊悩する。
リゼットなりの基準に彼が合格したとでも言うのだろうか。たった一瞬で?
レアンドルを品定めした時は、顔合わせが終わった直後から文句ばかり垂れ流していたのに。
一通り謝った事だし、そろそろこの場から離れようと思ったアリエノールだったが、昨夜彼から借りたハンカチの事を思い出した。
「あの……昨日お借りしたハンカチ、今日は持っていなくて……」
「ああ、それなら気にしなくていい。捨ててくれても構わない。」
「そんな事はできません!」
人の好意が込められた物を捨てるなど、アリエノールの主義に反する。
「必ずお返し致しま……」
そこまで言って気付いた。この青年の名も知らぬのに、どうやって返すのかと。
自ら名乗るのは気が進まなかったが、相手の名を聞く以上は仕方のない事だろう。
「遅れましたが……わたくしはベランジェ公爵家の長女アリエノールと申します。ハンカチをお返しするために、失礼ですがお名前をお聞きしても?」
しかし一拍どころか五拍くらい置いても青年から返事は返ってこない。
名乗る事に抵抗があるのだろうか。彼はただじっとアリエノールの様子を窺っている。
(これはもしかして……!!)
自分は新手の軟派だと思われているのかもしれない。これだけの美形だ。街中で声を掛けられる事もそれは多いだろう。そして目の前にいるアリエノールもそういう輩の一人だと思っているに違いない。だがしかし、その勘違いは最高に困る。
婚約者から婚約解消された途端、療養と称し訪れた避暑地で出会った美しい男を逆軟派……そんな噂が流れたら、もう結婚どころか後ろ指をさされまくってこの国では暮らせなくなる。
急いで訂正せねば。
アリエノールが意を決したその時だった。
「まあ!クロヴィス様じゃありませんか!」
行商の途中だろうか。大きな荷物を荷車に積んで引いている、高齢の女性が声を掛けてきた。
「ああポーラ、久し振りだな。腰の調子はどうだ?」
「お陰様で随分いいですよ!クロヴィス様こそ、こちらの別嬪さんは?もしかしてついにご結婚ですか!?」
「違うよ。この街に不慣れなようだから案内していたんだ」
目の前で交わされる和やかな会話は、アリエノールの頭に一切入って来なかった。
なぜならポーラが放った言葉に頭を殴られたような衝撃を受けたからだ。
(今、何て?)
『まあ!クロヴィス様じゃありませんか!』
クロヴィス様?この人が?
(まさかそんな…)
アリエノールは開いた口をそのままに、しばらく二人のやり取りを眺めている事しかできなかった。
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