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 アリエノールが王太子レアンドルの婚約者となって十年。  その年月は、自分の心を殺してきた年月とまったく同じだ。  しかし、私にそんな残酷な道を歩ませた張本人は、衆人環視の中、いとも簡単に言い放った。  「クラリスが私に捧げてくれる気持ちこそが真実の愛だ。アリエノール、悪いが君との婚約は解消させてもらいたい」  王太子レアンドルの後ろに隠れるようにして、怯えた目をアリエノールに向けているのは、アダン子爵家令嬢クラリス。  愛らしい小ぶりな顔に、大きく潤んだ瞳。  小柄な身体に似合わない、たわわな膨らみを更に強調するかのような大胆なドレス。  クラリス・アダンと言えば、身分の低さと反比例するかのような手癖の凶悪さで、社交界の御婦人方の間でも有名だ。  まさかそんな女性に未来の国王が、そして自分の婚約者が奪われるなどと、アリエノールは夢にも思わなかった。  しかし、長く共に時間を過ごしてきたからこそわかる。レアンドルの目は本気だ。そして本気だからこそ、こんな目立つ場所でアリエノールとの婚約解消をあえて明言したのだろう。  (それならばもう……)  何をどう足掻いても無駄だ。  それに、レアンドルを愛しているのかと問われれば、返答に困る程度の気持ちしか持ち合わせていない。  レアンドルのこの配慮の無さは、アリエノールの彼への無関心さと同じようなもの。  (自業自得……なのかしら)  こんな時だというのに、自嘲するような笑みが自然とこぼれる。    「……承知いたしました。婚約を解消するにあたり、必要な手続きが整いましたらお知らせ下さい」  アリエノールはいつもよりたっぷりと時間をかけて、まるでレアンドルへの別れの挨拶のような礼をした。  未来の王妃たる者として、アリエノールが血の滲むような努力の末に身に付けた所作は、会場中から溜め息が漏れ聞こえるほどに美しかった。  一言も反論せず受け入れたアリエノールに、レアンドルは何故か苛立ったような表情をしていたが、気になったのはそれよりもその後ろ。  “いい気味”と言わんばかりに愉悦の笑みを浮かべ、レアンドルに身体を擦り寄せるクラリスだった。  *  「ふっっざけんじゃないわよあのクソ王太子がぁぁぁあ!!」  翌朝、アリエノールの生家ベランジェ公爵邸に、天地を引き裂くような怒号が響いた。  「お、落ち着いてリゼット。私なら大丈夫だから」  「大丈夫な訳ないでしょ!お姉様には何の非もないのに、いきなり傷物にされたのよ!?」  妹のリゼットは興奮すると手が付けられない暴れん坊だが、言っている事はいつも優しく正しい。アリエノールはこの妹がとても愛しく、大切に思っている。  「あんな股のゆるい女の猛攻ごときにホイホイ落ちるような奴が王太子だなんて、この国も終わったわね!!」  「リ、リゼット?ちょっと落ち着こう?ほら、私のデザートあげるから。ね?」  デザートに出されたのは、幸いと言うべきかリゼットの大好物。リゼットはそれをチラ見すると、皿が割れそうな勢いでフォークを突き刺し口に運んだ。  モムモムと咀嚼する姿がリスのようで可愛らしい。出来ればこのまま永遠にデザートを食べ続けていてもらいたい。  「正式な婚約解消まではしばらくかかる。それまではゆっくり休むと良い。……これまでお前は本当によく頑張った」  「そうだよアリエノール!今回の事はお前には何の落ち度もない。非難されるべきは王家の方だ」  アリエノールの父であるセザール・ベランジェ公爵と、兄のフランソワも、揃ってアリエノールのこれまでの努力を労った。  「お父様……お兄様も、ありがとう。でも私は本当に大丈夫よ」  自分でも不思議なほど、穏やかな気持ちだ。  「それなら旅行に行くのは?」  「旅行?でも、そんな遠くには行けないわ」  兄フランソワの提案に、アリエノールは少しだけ心が動いたが、婚約解消の手続きの事も考えると、遠出は無理だ。    「ベストンの避暑地!あそこなら海もあるし、いい気分転換になるよ」  「ベストン……」  王都から三日もあれば着く場所だ。    「良いわね!行きましょお姉様!!」  もう食べ終わったのか、リゼットは自分も行くと声を上げた。  (……ベストンなら、いつ呼び出されてもすぐ帰ってこれるわね)    「わかったわ。ずっと外出もままならなかったし、楽しんでくるわね」  そして翌日。アリエノールは、妹のリゼットと共にベストンへと旅立ったのだった。    
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