旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

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——永い年月が流れた。 病に臥した芭蕉は、熱にうなされながらも必死で紙に筆を滑らせていた。 「芭蕉殿、ご無理をなさらない方が……」 「いや。これが『最期』になるかもしれない。 思い残すことがないよう、句を詠ませてあげよう」 芭蕉の周りには、老若男女さまざまな姿があった。 普段は離れた場所で暮らす、旅先で出会った人々すらも 芭蕉の容態が悪いことを耳にして集まり、彼が永い旅に出るのを見送ろうとしていた。 「……げほっ!」 「!芭蕉殿、しっかり」 芭蕉の近くにいた男——桃雪は、彼の身体を支えながら 芭蕉を挟んで反対側にいる自分の妻と弟を見た。 「凄い熱だ。霧乃は芭蕉殿の氷枕を交換してくれないか。 桃翠は芭蕉殿が紙を持つ手を支えてやってくれ」 「すぐに新しい氷を持って来ます!」 「先生……っ」 霧乃がその場を離れ、桃翠が泣きそうな顔で芭蕉の腕を支える中 芭蕉はぜいぜいと呼吸をしながらも句を書き終え、斜め前に座る庄助に紙を差し出した。 「……これを……曽良に見せたい……」 芭蕉が息も絶え絶えに言うと、庄助は戸惑いの色を浮かべた。 庄助は一瞬口を開こうとしたものの、ぐっと唇を噛み締め、肩を震わせた。 その様子を見ていた男——世之介は、彼に代わって紙を受け取り、芭蕉に告げた。 「曽良は——ひと足先に旅に出ただろう?」 「……そうか……。 ……そうだったね……」 芭蕉はそう言うと、息を吐き出して身体を横たえた。 「曽良は、たぶん……幸せな人生を歩んだと思いますよ。 あなたと飽きるほど生きたんですから」 対馬が淡々とした調子で言った。 すると、笑太郎が大きく頷いた。 「そうですよ。芭蕉殿と沢山旅をして、色んな句を詠まれて—— 最期は芭蕉殿に看取られて逝ったのですから」 それぞれが励ますように言うと、芭蕉は小さく笑みを浮かべた。 「……僕は曽良のことを、幸せにしてあげられたんだね……良かった……」 すると、一人の女が口を開いた。 「曽良殿はもちろんのこと、芭蕉殿と関わった方々は、みんなあなたに幸せにしてもらいました」 部屋の奥に座っていた女——桜は、おずおずと芭蕉の近くに進み出た。 「旅の宿で一晩だけ会話を交わした私でさえ、 あなたが残してくれた俳句を心の支えに勉学に励むことができました。 ——句の意味を理解できるようになった頃、 お金も貯まった私は遊女の勤めを終えることができ、外の世界の仕事にありつけました。 ……芭蕉殿と出会えたお陰で人生が幸福なものに変わった人は沢山いるはずです」 すると桃雪や笑太郎は、桜の言葉にうんうんと大きく頷き返した。 「僕も芭蕉殿のお陰で霧乃と出会い、温かい家庭を作ることができました」 「私も茶屋を開き、改めて自分の足で人生を歩み始めることができたのは芭蕉殿のお陰だと思っています」 「俺も、あんたのお陰で藤林と百地両方を治める長になれたしな」 世之介が言うと、対馬がむすっとした顔で 「強引な真似をして、ね」 と呟いた。 「はは、対馬。 散々文句を言いながらも、顔に皺ができるこの歳になるまで俺に仕え続けてくれたよな。 俺が芭蕉の容態についての知らせを受けて里を暫く空けると言った時には 手早く周りの者に仕事を引継ぎ、『自分も行く』と言って出て来たし」 「……曽良を看取れなかった代わりに 曽良が愛した人の死に際を見ておこうと思っただけです……」 「——先に旅立った清風殿や阿闍梨殿も、 定期的に芭蕉と曽良は元気かと文を送ってきていたそうじゃないか。 曽良がその文を嬉しそうに俺に見せてくれていたっけな」 庄助が曽良を思い出しながら言うと、芭蕉はにっこりと微笑み、 その場に集まっている人々を見渡して言った。 「皆に寄り添ってもらえて、曽良が居なくなった後も 僕は寂しさを感じることなく今日まで生きて来れた。 本当にありがとう。 ……この句は、皆に向けて贈るよ……。 沢山の感謝を……込めて——」 芭蕉はそう言うと、襲って来た眠気と共に、ゆっくりと目を閉じた。 ——芭蕉がすっかり冷たくなった頃、 涙を拭った者達は、芭蕉の遺した紙を取り囲むようにして覗き込んだ。 芭蕉最期の句となった悲しみに暮れながら紙を見た面々だったが、 それを詠んだ後、心の霧が晴れていくような思いがした。 「——やっぱり、芭蕉には旅が似合うな」 「今頃は曽良殿と再会して、また旅に出ていることでしょう。 あの世で曽良殿に、新しく作った句を発表している頃かもしれませんね」 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる 完
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