徒し世の忍

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「ははっ、先生っていつも後ろ向きだよねえ」 「ごめんね……」 「まあ、後ろ向きだけど優しい先生のこと、俺は好きだけどさ! ——ねえ、先生」 「うん?」 彦郎は俯いて少し考えた後、芭蕉に尋ねた。 「ほんとに、旅したい?」 「……それを許す環境であれば、ね」 「——分かった!」 「?分かったって、何を——あっ」 彦郎は、芭蕉が聞き返す前にパタパタと走り去ってしまった。 訳が分からず混乱する芭蕉だったが 数日後、沢山の金銭が入った袋を 大勢の子どもたちから差し出される光景に 彼は更に混乱を極めた。 「こ……、このお金は……?」 「私達みんなで集めた資金です!」 「これで先生も旅をしてください!」 戸惑う芭蕉に、子ども達が次々と言葉をかけて来た。 彦郎は、芭蕉がお金と時間さえ許せば自分も旅に出てみたいと口にしたことを聞いて 芭蕉の元に通う仲間達にそれを伝えていた。 そして日ごろ無償で学問を教えてくれている芭蕉のために それぞれが家の手伝いや親に頼み込むなどして金銭を集め、芭蕉の旅費を作ったのだった。 「僕の為に、こんな大切なお金を使うことはないよ」 芭蕉は戸惑いを浮かべながら言ったが、子ども達はお金を無理やり芭蕉の懐の中へ突っ込んだ。 「先生!これは日頃のお礼の気持ちです!」 「私達、先生のお陰で学問を身に付け、家の跡を継ぐ以外の将来の選択肢を見つけることが出来ました」 「先生もずっと忙しく働いていたでしょう? 暫く江戸を離れて、ゆっくりしてきて下さい!」 「みんな……」 芭蕉は、自分を慕う子ども達に囲まれて思わず感極まり、涙をこぼした。 「あっ!先生、泣いちゃったー!」 子ども達は慌てて芭蕉の涙を拭こうとしたが、 芭蕉は尚もぼろぼろと涙を落とし続けた。 「大丈夫……これは嬉し涙だから……」 「うれしなみだ?」 「……僕、嬉しくて泣くのは初めてだよ。 こんな風に、心が揺さぶられるような思いをしたことは無かったから——」 「先生……!」 「……ありがとう、みんな……」 こうして子ども達の温情を受け、旅をするための時間とお金を得た芭蕉は、次にどこへ行くかを考えた。 だが、地理に詳しい訳でもなく、特に見たいものがあった訳でも無かった芭蕉は とりあえず自分もお伊勢参りをしてみるか、と思い立ち 江戸から西へと旅立ったのであった——
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