野ざらしを心に風のしむ身かな

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「——子ども達に向けての書き置きは……これでよし」 翌朝早く、旅の支度を整えた芭蕉は 『伊勢参りから戻ったばかりだけど、今度はみちのくを旅してきます。 長らく空けてしまうことをお許しください』 と伝言を記した紙を戸口に貼り付けた。 「本当に良かったのか? 子ども達に学問を教えるのを生き甲斐にしていたんだろ?」 戸締りを済ませ、荷物を背負った芭蕉に対して曽良が問いかけた。 「生き甲斐は探せば他にも見つかると思う。 現に俳句を始めてから、生きる楽しみが増えたし……。 でも曽良の命は一つだけだから」 芭蕉がにこっと微笑むと、曽良は 「俺の命か……」 と呟いた。 「『忍には個などない。 忍はすべからく、主君に命を捧げる為だけに存在する』 里で長——芭蕉のお父上に言われた。 里の者達は皆、同じことを言い聞かされて育ったから、 俺も俺自身の命が唯一無二だと考えたことはなかったな」 すると芭蕉は、 「それって変な話だよね」 と返した。 「変?」 「だってさ、忍には『個』が無いなら 僕が長の子として特別扱いされていたことも、後を継ぐよう言われたのも筋が通らないよね。 『個』を尊重しないというのが父上の考えなら 後を継ぐのは僕じゃない他の忍だって良かった訳でしょ?」 「いや、それとこれとは別じゃないか? 『個』を尊重しないから、芭蕉のお父上は 芭蕉の意志を尊重することなく、機械的に血筋に後を継がせようとしたんだよ」 「ああ、そっか……」 芭蕉はしょんぼりと肩を落とした。 「僕はやっぱり、父上には『忍の里長の後継』としての扱いしか受けていなかったんだなあ。 確かに父上、修行の相談についてしか口を聞いてくれなかったっけ……。 僕が蛙を捕まえた話をした時なんて、 虫を見るような目で僕を睨み返して来たし……」 「ま、まあそう落ち込むな! 芭蕉はもう新しい人生を歩んでいるんだから。 あの人は今の芭蕉にとっては赤の他人なんだからさ」 落ち込む芭蕉を励まそうと曽良が言うと、芭蕉はハッとして顔を上げた。 「……そうだね!僕は『松尾芭蕉』。 俳句を趣味として生きる、ただの平民だ!」 そう言うと芭蕉は、背負ったばかりの荷物を再び降ろし 中から紙と筆を引っ張り出した。
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