野ざらしを心に風のしむ身かな

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芭蕉がはっとして振り返ると、 そこには少し前まで自分が学問を教えていた子どもが立っていた。 「!孫太郎。久しぶりだね……」 「先生!そんな大荷物を抱えてどこへ行くのですか?」 芭蕉の元教え子——孫太郎は興味深げに芭蕉と曽良のもとへ近寄って来た。 「……これから暫く旅をして回るんだ」 「旅?じゃあ、しばらく松尾塾はお休みされるのですか?」 松尾塾——寺子屋ではないが、芭蕉に学問を教わる子ども達は 親しみを込めてそう呼んでいる。 「うん。松尾塾は休業するよ。 子ども達には申し訳ないけれど……」 「へえ。確かに先生に暫く会えないのは皆寂しがるかもしれませんね」 「孫太郎はどうしてここに?こんな朝早く」 「俺は飛脚の仕事を継いだのですが、 これから隣町まで文を届ける途中なんです!」 「!……そっか、家業を継いだんだね」 本当は、僕のように家業を継ぐ未来しか選べない子ども達のために 学を付けてもらい、自由に仕事を選べるようになってほしいと思って始めた松尾塾だったけれど…… そうか、成績優秀だったこの子も ご実家の後を継ぐことになったのか—— 芭蕉がこっそり落ち込んでいると、 孫太郎は顔を輝かせながらこう口にした。 「俺、塾に通っていた頃は飛脚屋なんて継ぎたくないって思ってたんですけど……。 今はこの仕事、とても楽しんでやってます! それもこれも、先生から学問を教わったお陰なんです!」 「——え?」 芭蕉が驚いて顔を上げると、孫太郎は続けて言った。 「勘定の仕方や世の中の流通についてを学んだので 距離や地理による道中の負荷を考慮した 適正な価格で仕事を請け負えるようになりましたし……、 お届け先でも、その土地の歴史や名所、特産に因んだ世間話をするとお客さんに気に入って頂けることがあって、 また次もうちに頼みたいって言ってもらえるんです。 親父の代より格段に稼げるようになったし、 初めて行く土地の人とも自分の持っている知識で会話をすることができるので そういった人との交流も楽しくて仕方がないんです! ——学問を身につけたお陰で、この仕事の楽しさを知ることができました!」 嬉しそうに語る孫太郎を見ているうちに 温かい気持ちが湧き上がって来た芭蕉は 優しく孫太郎の頭を撫でてやった。 「孫太郎は偉いね。 自分の仕事に誇りを持って働いているのが伝わって来たよ。 孫太郎が楽しく働けているのだとしたら、 それは孫太郎が意欲的に学問に取り組み、仕事に活かそうと努力している証だよ」
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