旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

2/3
26人が本棚に入れています
本棚に追加
/332ページ
「……世之介」 対馬が振り向くことなく言うと、 「いい加減『長』って呼んでくれないかな」 と世之介が返した。 「曽良から芭蕉へ宛てた手紙か。 俺もちょっと気になるな」 そう言いながら世之介が対馬の前へ回り込むと、世之介は少し息を呑んだ。 「……なるほど。 そんな泣き顔をされたら、あの旅人もお前に文を預けて去りたくもなるよな」 「!」 対馬は慌てて涙を拭うと、 「どこかへ行っててください」 と言ってそっぽを向いた。 「里長である俺でも見ちゃ駄目なのか?」 「曽良を殺そうとしたことのあるあなたに、曽良の文を読む権利はありません」 「そもそもお前に宛てた文でもないだろ」 「俺はいいんです。 俺は……曽良の……」 「分かった、分かった。 じゃあそれを読んだら仕事に戻って来るようにな」 「……」 世之介の姿が見えなくなると、対馬はそっと文を開いた。 『芭蕉、元気にしているか。 俺はこうして無事に生きているから安心して欲しい。 再び会うことは無いだろうけれど、 俺は芭蕉さえ健康に生きていてくれたら幸せだ』 「……はぁ。なんで曽良は、あんな男なんかに こんなにも惚れ込んでしまったんだ……」 かつては憧れ、淡い恋心さえ抱いたことのある曽良が 自分ではない男を想う文を読み、思わず指先に力が籠る。 だが、勢いのまま文を破り裂いてしまおうかと思ったその時、『対馬』という文字が目に入った。 『対馬という男を覚えているか? 俺が里にいた頃、友として親しくしていた男だ。 対馬は頭の回転が速く、世話好きで細やかな気配りが出来、周囲から一目置かれていた。 彼ならばきっと、芭蕉のことを支えてくれると思う。 俺が芭蕉を助けてやれないのは心苦しいけれど、 俺の一番信頼していた友がきっと芭蕉のことを支えてくれるはずだから—— 何か困ったことがあれば対馬を頼って欲しい』 「……っ。 俺は——君の恋仲まで世話するほどのお人好しじゃなかったよ」 対馬は文を持つ手を震わせながら、そう呟いた。 だけど——俺のことを信頼してくれてありがとう。 恋仲にはなれなかったけれど、 俺を一番の友として認めてくれてありがとう。 対馬は心の中で自然にそう口にしていた。 そして対馬がさらに文を読み進めると、最後にこう記されていた。 『もう、芭蕉と一緒に旅をして句を詠むことは叶わないけれど、 旅をしていた最後の地で考えていた句を芭蕉に贈りたいと思う。 行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原 ——旅を進めて行く中で何か障害が起きたり、病に倒れるようなことがあったとしても 行き着く先が花の咲く原であったなら、悔いることはないだろうと思って作った句だ。 結果的に今、こうして離れ離れになってしまった訳だけれど…… 今でもこの句に込めた想いは変わっていない。 ……出羽三山に登った時、湯殿山の山頂で芭蕉が俺に言ってくれた言葉を覚えているか? 「曽良となら、どこへだって行く覚悟だよ。 たとえ行く先が冥土に続いていたとしても—— そこが地獄でも、今みたいに句を詠める気がするんだ。 曽良と一緒に居るだけで、僕の内側からはいくらだって言葉が湧き上がってくるから」 そう言ってくれた。 芭蕉は、俺と一緒ならばどこへでも行くと言ってくれたけれど—— 芭蕉と共に旅した場所は、俺の目にはいつも花が咲いているように華やぎ、輝いて見えていたんだ。 行き着いた先は江戸の牢の中だけれど、 俺は芭蕉に会えて、芭蕉と旅した思い出の中で ずっと甘美な夢を見ることができる。 芭蕉がどこに居ようとも、芭蕉が生きている限り 俺の行き着く先は萩の原だ』 「……はぁ」 対馬は文を閉じると、深くため息をついた。 「俺の知っている曽良は、こんな甘ったるい文章をしたためるような忍じゃなかったはずなのになぁ。 ……君はとっくに、忍では無くなっていたんだね」 だけど——不思議なものだな。 忍として活躍していた頃とは程遠い存在に落ちぶれてしまったはずなのに、 生き生きとした文章をしたためる今の曽良の方が、どこか輝いているように思える。 せいぜい、つまらない人間として 寿命が尽きるまで生きていけばいい。 どうせどんな風に生きたって、行き着く先にはいつも金作が居るんだ。 いつまでも萩の原を歩いて行けばいい——
/332ページ

最初のコメントを投稿しよう!