徒し世の忍

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金作が江戸に出て来てから数年の月日が流れ—— 江戸の深川の地に小さな自宅を建てた金作は、 『松尾芭蕉』と自らを名乗り暮らしていた。 里にいた頃に必死で勉強した知識を活かし 寺子屋へ通う金銭的余裕のない子ども達に向けて 自宅で学問を教えることを生業としている。 子ども達から学費は取っていなかったが、彼らの親から謝礼代わりにと 自宅で収穫した米や野菜をお裾分けしてもらったり、 中古の家具を譲ってもらう、家の補修を手伝ってもらうといった 身の回りの世話を焼いて貰えたために 贅沢はできないが人並みに質素な暮らしを送れるようになっていた。 子ども達に学問を教えていると、 自分自身の教養も磨かれ、また子ども達の純朴な感性に触れることができた芭蕉は 日々の気づきや感じたことを備忘録として書き残すことが習慣となっていった。 その一方、自分の書く文章はどこか味気なく煩雑としており、 たまに見返してもその当時思ったこと、見た景色、心に湧き上がった感情が反芻されるようなことは無かった。 もともと、僕は人と話すことが不得意な臆病者だ。 自分よりずっと歳下の子どもに学問を教えるくらいならばできるけれど、 里で同年代の子から陰口を叩かれ、大人達から過度な期待を掛けられていた過去が尾を引いているのか 子ども以外とはまともに目を見て話せない。 心の中ではこんなにも饒舌になれるのに。 曽良にだって、感謝や応援の言葉をかけたかったのに 自分の我儘ばかりが口をついて出て来て、うまく言葉にならなかった。 文章ならば冷静に、頭を整理して吐き出すことができるんじゃないかと思ったけれど ただ事実を述べただけの面白みのないことしか書けない。 僕がつまらない人間だからだろうか? ……いや、そうじゃない。 僕だって、生を受けてからの間に沢山のことを経験して来た。 嬉しいことも、悲しいことも、何度も感じてきたはずだ。 僕が無感情なのではない。 僕の感じたことを、上手く声や文字に表現できないだけだ。
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