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——虚しい。
故郷との繋がりを絶ち、素性を偽りながら生きる日々には慣れたけれど、
このまま僕が死んでも、偽りの僕しかこの世に残らない。
いや、何かが残ることすらないだろう。
ああ。それでも……この徒し世に
僕が生きた痕跡を、何か証を残したい。
僕が死んだ後、僕たらしめる何かを残すにはどうしたらいい?
肉体が滅び、僕という存在を知る人が皆死んだ後も、ずっと残るもの……
子ども達に学問を教える傍ら、
自分の生の意義について何度も考えるようになっていた芭蕉。
そんな日々を送るある時、古書店の知り合いから
お勧めの書物として一冊の歌集を譲ってもらった。
そこには自分が生まれてくる何百年も前の人達が書き残した歌がいくつも載っており、
その多くは恋について歌ったものだった。
だが、生計を立てるので手一杯な日々を送ってきた芭蕉は、
他人が他人へ思いを募らせしたためた文字に心が揺り動かされることはなかった。
昔の人も今の人も、恋の話が好きなんだなあ。
誰が誰を好いているなんてこと、僕には何の関係もないし、
五・七・五・七・七の中に込められた思いを汲み取ることなんてできない。
教養として歌を学ぶのは悪くないかもしれないけど、
『こんなもの』では僕が生きた証を残すことなんて——
そう思いながら紙をめくっていた芭蕉だったが、
ふとあるページでめくる手を止めた。
『願はくは花の下にて春死なむ。
その如月の望月のころ』
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