徒し世の忍

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ああ……。 桜の舞う木の下で眠るように生涯を終えられたら、 どれだけ気持ちの良い最期だろうなあ。 伊賀の里では人の死体や血を毎日のように見て来た。 そんなものばかり見て来たせいで、 僕の眼はすっかり曇ってしまった気がする。 この歌を詠んだ人は、さぞ美しいものを沢山目にして、 人生の最期にも美しいものを見ながら逝きたいと考えたんだろうな…… 芭蕉は詠み手にそんな想像を巡らせるうち、ハッと我に返った。 何百年も前に生きていた人が書いた歌なのに、 現世を生きる僕がこの文字を見て この人の考えていたことを推察し、思いを馳せている。 ……これが、生きた証を残すってことなんじゃないか? 芭蕉はパタンと書物を閉じると、 机の上に紙を広げ、筆を取った。 「五、七、五……七、七」 歌の基礎は最低限だけれど知っている。 僕も、あの歌を詠んだ人——西行法師のような歌を作ってみよう。 そう意気込み、墨を筆に浸した芭蕉だったが そこから先、彼は石のように固まってしまった。 ——書けない。 美しい景色も、心揺さぶられる感動も思い出にない僕には、 西行法師のような情緒のある歌は作れない。 僕じゃ、あんな美しい歌は詠めない—— 暫く白紙の紙と向き合っていた芭蕉だったが、 やがて大きく息を吐き出し、ごろりと横になった。 やめやめ。 僕には歌なんて無理だ。 一人前の忍になる前に里を逃げ出して来たような臆病者の僕に 大層なものを詠めるはずがない。 それこそ曽良のように強くて、人望があって、 里の誇りのような存在だったなら 崇高な心の内を書き留めることもできたろうに—— すっかり不貞腐れた芭蕉は、文字で生きた証を残そうという思いつきを 思いつきのままで終わりにしたのだった。 そして今まで通り、子ども達に学問を教える生活を送っていたある日。 芭蕉の自宅に通っている少年・彦郎が、 手習を終えた後で芭蕉に何かを握らせてきた。
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