孝雄の記憶

1/1
前へ
/8ページ
次へ

孝雄の記憶

 居間でテレビが流れている。最近人気のお笑い芸人がなにかを言って、周りから笑いが巻き起こる。なにか面白いことを言っていたのか、聞いていなかったせいでなにがそんなに面白いのかわからない。おーい、と貴子を呼ぶ。返事が返ってこなくて、それでやっと買い物に行くといって出かけたことを思い出す。最近ボケてきてるな、俺。  ゆっくりと立ち上がって台所まで行く。戸棚を開けると緑茶が入っている。手に取り軽くふると、あと一回分ほどの葉が入っていることがわかった。やかんに水を入れて火にかける。それから居間に戻って、流れ続けていたテレビを眺める。 「そこでね、私が帰ってきてこう、テレビを見てたんですよ」  いつの間にか、番組は夏のホラー特集になっていた。 「そうしたら玄関から変な音がする。よく耳を凝らすと、誰かが足を引きずってる感じなんですよ。誰かが訪ねてくる予定なんてないんです。なのに、その音は止まない。しかも、僕の部屋の前で止まったんです。僕がビクビクしていたら、突然ドアがどんどんっつって叩かれてね。恐る恐るドアを開けたら――」  そこで、玄関から扉を叩く音がした。いやいや、生まれてから一度も幽霊のたぐいは目にしていない。ありえないさ、そんなの。  そう思いながらそっと声をかける。 「開いてるよ、貴子」  返事は返ってこない。まさか本当に、幽霊か……? いや、あの戦火を生き抜いたんだ。これくらいのことで怖がってどうする。震える手でそばにある新聞紙を丸めていると、小さく呟く声が聞こえた。 「じいちゃん……。助けて……」  いやまて、なんで大輝がいるんだ。頭の中がこんがらがってくる。 「お、おう。とりあえず、こっちこい」  ず、と音がして血まみれの孫が出てくる。思わず叫び声を上げそうになって、それから深呼吸をして落ち着く。 「どうしたんだ、そんな格好で」  と尋ねると、とぎれとぎれに答えが返ってくる。 「裕太と、友樹に川が、肝試しまで、行って、怪物が、襲って、裕太は赤くて、友樹……。友樹が一人だ……。僕に、逃げた」  意味がわからないが、急を要する事だけは伝わってくる。 「落ち着いて話しな。まず、裕太くんと友樹くんと川に肝試しのために行ったんだな。それはどこの川だ」 「ま、松瀬川……」  松瀬川……。最近聞いた覚えがあるな。何だっけ。 「で、その松瀬川に行ったら怪物が襲ってきたと」  喋っているうちに思い出してきた。そういや、数年前から貴子が名前を出すようになってたっけ。あまり気にしていなかったが、変な噂があったっけ。たしか……。 「儀式をしたらあの世に連れてかれるっつう噂があったな。まさか、それやってほんとにバケモンが出てきたんか!?」  思わず声がうわずる。それにかぶせて大輝が叫ぶ。 「それで、裕太と友樹が殺されたんだ、そいつに!」  頭を殴られたような衝撃に襲われる。知っている人間が殺される。こんなことはいつぶりだ。あの日、目の前で母さんが焼夷弾に焼かれたときか。それとも、近所の兄ちゃんが全身にやけどを負って息を引き取ったときか。口からうめき声が漏れる。あんな風に命がけで逃げるのはもう嫌だ。でも。 「はよ案内せい!」  誰かが悲しい顔をするところはもう見たくない。ただふざけているだけであれ。  ばんっ! 突然、大輝が前のめりに倒れた。驚いて、息をしているか確認する。大丈夫。気を失っただけだ。縁側に布団を敷いて寝かせてから、サンダルをつっかけて走り出す。確か、待つ瀬川はうちから二〇分くらいのところにあったはずだ。足で行くより、車のほうが速いか。財布から鍵を出して車を開ける。中は熱気がこもっていた。  車に乗り込んで、左右を確認して人影がないことを確かめる。これで轢いてしまったら大変だ。それから、思いっきりアクセルを踏み込む。この際少しくらい制限速度より速くてもいいだろう。窓の外を緑の大地が流れる。前方には大きな積乱雲と真っ青な空。所々にひまわりの黄色が混じる。だが今はそれを鑑賞している場合ではない。  暫く進むと、唐突に左側に曲がる細い道が見えてきた。たしかここを進めばよかったはずだ。そのまま曲がって車を進める。だんだん背の高い木が増えてきて、どこからか水音が聞こえるようになってくる。あまりにいつもどおり過ぎて、まさか嘘ではないだろうなと疑ってしまう。  水音が近くなってくる。適当に車を停めると、適当に川の方向を向いて進んでいく。目の前にあった背の高い草をかき分けると、景色に全く合わない赤色が見えた。思わずそちらへ駆け出す。近づくと、血まみれの子供が二人倒れていた。  嘘ではなかったのか。ここで、殺されたのか。顔を見ると、一度会ったことのある少年たちだった。裕太の方はもう手遅れだ。失血死ではないだろう。体を見ればそれは明らかだ。友樹の方は幸いまだ意識があるらしい。二人を車に乗せる。そこで、やっと警察のことを思い出した。慌てすぎだろ、俺。 「はい、警察です。なにがありましたか」  息を吸って落ち着こうとしながら答える。 「孫の友達が殺されました。場所は笠鳴町の三丁目、松瀬川です。犯人は、わかりません。駆けつけたときは死んでいました。あ、二人いるんですが、一人はまだ息があります。孫から教えられて駆けつけたんです」    ベットの横に立てられた貴子の写真を眺めて、呼びかける。 「大輝も大きくなった。いつも見守ってくれてありがとう。あんな事があったのに、大輝は元気に育っている。お前が傍で見守ってやれないのは俺にとっても辛いことだよ。……なあ貴子、あそこは行ってはいけない場所だったんだな。三途の川、なのかもしれん。お前も裕太君も、俺のせいで向こうへやっちまったな。本当に申し訳ない。お前が最後に大輝にあったときから、あの子はずいぶん大きくなった。もう計算もできない子じゃない。思えばあの子は二回も同じ目にあっているんだから、可哀想な子だ。」  そこで言葉を切り、ゆっくりあたりを見回す。病室の窓から見る夕日は、どこかの国の絵画のようだ。 「なあ、俺もそろそろそっちにいくよ」  閉じてゆく瞼の裏側に、燃えるようなオレンジ色が映る。最後に見た顔が、貴子で良かった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加