野干(やかん)【前篇】

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「言伝だけでは、きっと伝わらぬと思うので……」  昔に親しく、今もその者は近くの里にいる。だが自分からは伝えることができず、言伝だけでも不足がある……なるほど、そういうことか。 「サロクはもう、お前さんのことが随分前に見えなくなったか」 「はい……話もできないし、記憶もとうに消えてしまってるようで」 「ふむ。やはりか」  このようなことは珍しくない。万物の(もと)となるウブスナが原因で、まま起こることだ。  ウブスナは通常、人には見えない。だが俺ら人はもちろん、怪異や自然に至るまで。(あまね)くウブスナは流れている。  平たく言えば海と言えるだろう。ときに雨となり、ときに川や沼となり、ときに飲み水となり……それと同じように循環する。  人の子はとりわけ、このウブスナを多く享受して生きる力を得る。だが、成長するにつれて自身の生命力を柱とするため、それは最小限のみ体に残ることとなる。するとウブスナを介して見えていた怪異は見えなくなり、怪異との記憶そのものも次第に薄れてゆく。母胎を出た赤子が、胎内の景色や記憶をいつしか忘却するように。  俺のように大人でも見えるのは、ウブスナに関わらない生まれつきの体質か巡り合わせ、あるいは生死を彷徨うなどして常世(とこよ)に触れた者だけと聞く。
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