第十章 23

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第十章 23

 別れの朝は、早いうちから気温が上がって暖かだった。ふたりが初めて出会ったあの日そっくりの、やわらかな風の吹く、気持ちのいい日だ。  朝食後、庭園に眠る兄へ別れの挨拶をした。墓碑の上には真っ白な花輪が供えられていた。早朝にアズハーが暫しの別れを告げに訪れたのだろう。  小道を戻りながら、リュイはちらりとティセを盗み見た。 「なんだよ」 「……なにも……」  と言いつつ、またすぐにちらりと見遣る。 「なんだよ!」 「…………」  昨日から何度目かも分からない深い溜め息をつき、つぶやいた。 「……どうしても女に思えない……」 「…………」 「そんなに行儀の悪い女がいるの……?」 「……俺だって知らねえよ」  ふたたび、ふうと息をつく。 「べつに無理に思わなくてもいいよ。ちっとも構わない」 「……アズハーさんたちも誤解しているんじゃないか……」 「してるよ、間違いなく!」  迷うことなくふたりに同室を提供したのだから、確実に誤解していると分かっていた。 「あとでちゃんと言わないとな。こんなにお世話になってるのに、騙してるみたいで気分が悪いもん……」  一家は出発の準備をすべて整えた。車寄せに二台の馬車が待機している。ふたりも荷物をまとめて部屋を出た。  玄関先で、アズハーが待っていた。今日はシャツの裾をきちんと仕舞い、仕立てのいい背広を纏っている。  ふたりに穏やかな笑みを向け、 「私たちは先に出よう。街道に出て、左へ曲がったところでのんびり待っているから、きみたちはゆっくり話しながら来るといい」  それから、リュイをじっと見据えた。 「きみとはここで……」  ティセと一家はドゥリケルの町のほうへ戻るため、道を左に行く。バンダルバードへ向かうリュイは、右へ曲がり次の町を目指すのだ。 「お世話になりました」  アズハーは真摯な眼差しをして、リュイへ告げる。 「きみとまた会えることを強く願っているよ。この先もしも……なにか困ったことがあれば、真っ先に私を思い出してほしい。力になれるかは分からんが、きみの助けにもしもなれればと、心から思っている……」  そして、バンダルバードの本宅のほか、すべての別邸の住所を記した紙片を手渡した。 「では、またいつか会おう! 道中、充分気をつけて」  一家と使用人、ティセの荷物を乗せた二台の馬車は、軽やかな音を立てて門から出て行った。  木立の合間に隠れて見えなくなるまで、なんとはなしに馬車を見送った。 「もしかして……気を遣ってくれたのかな……」 「ん……」  ふたりが気兼ねなく、最後の語らいができるように。  リュイは手渡された紙片を手にしたまま、なにか考えているふうに暫し黙していた。やがて、重たげな口ぶりで言った。 「……アズハーさんは……兄から僕のことを聞いているのかもしれない……」  ティセは小さくうなずいた。リュイは目元をぴくりとさせて、 「……そう思う?」 「うん……たぶん」  たちまち、顔を曇らせた。瞳にそっと翳を漂わせる。  リュイが本当に解き放たれたように生きて笑うとき、翳はようやく消えるのだろう。闇に光が差すのだろう。そのときのリュイを、果たして見ることができるだろうか…………ティセはそれを、祈るように待ち望む。 「行こっか……」  ふたりは並んで、別邸をあとにした。  暖かなそよ風のなかを、名残惜しむようにゆっくりと歩く。 「リュイ、ほんとに楽しかった、一年間どうもありがとう」 「……僕も楽しかった」  前を向いたまま返した。ちらりと見れば、ひどく冷静な顔つきをしていた。それが逆に寂しげに見える。ティセは早くも涙が込み上げてきた。ぐっと呑み込んで、 「たまには手紙書いてよ。教えた住所なくすなよ、おまえ!」 「なくさないよ……」 「…………」  お互い無言になった。足音だけで会話をしているかのようだった。  なにを話せばいいのか、言葉の出ない自分が非常にもどかしい。けれど本当は――――話したいことは――――……心から言いたいことはただひとつなのだ。 「……ねえリュイ」  横顔をじっと見つめる。 「いつか……ナルジャに来てくれる?」  やはり前を向いたまま、 「……ん、いつか……」  不安になるほど曖昧に答えた。ティセはやきもきして、 「……ほんとかよっ……!?」  目を覗き込む。 「……いつか、行く」  ティセはついに立ち止まった。リュイを正面から見据え、熱を帯びた声で本心を語る。 「リュイ! いつか…………もういちど、おまえと歩いて行きたい……!」  瞬間、昂ぶったように顔つきはっとさせてから、リュイは切なげに目を逸らした。いまは同じ気持ちでも、離れて時が立てばお互いどうなるか分からない…………背けた目はそう言っていた。 「……行けたらいいと……僕も思う……」  つぶやくような小声で返した。ティセはもう、なにひとつ言葉が出てこない。  小道の先に、別邸への目印のように立つ立派な沙羅樹が見えてきた。街道だ。ふたりの旅の分かれ目だ――――……。  街道へ出ると左方に、一家の馬車が停車しているのが小さく見えた。ふたりは分かれ目に立ち、向かい合う。どちらからともなく、別れの握手をする。ぎゅっと繋いだ色合いの異なるふたつの手を、ティセは心に刻むように眺め、それから顔を上げ、 「じゃあね、元気でね」  無理に笑顔を向ければ、リュイもわずかに口角を上げて笑みを作る。 「おまえも元気で……」  が、ふたりとも足が動かない。向かい合ったまま、立ちつくす。 「…………おまえ、行けよ!」 「…………おまえが行けばいい」 「…………」  分かった、とティセは提案する。 「じゃあ、同時に行こう」  ふたりは背中合わせになった。荷物を負わないティセの背に、リュイの荷物がじかに触れる。 「じゃあな、行くぞ」 「ん……」 「せーの!」  同時に歩を進める。背中に触れていた荷物の感触がなくなり、リュイの気配が少しずつ遠くなる。ティセはたまらない思いに襲われて、固くまぶたを閉じた。  …………リュイ…………  倒れてしまいそうに哀しかった。大きな寂しさのかたまりのなかへ向かっている気がしていた。けれど、立ち止まらず、振り返らず、歩を進める。  ――――……十八歩目だった。もはや遠くて聞こえないはずのリュイのつぶやきが、何故かはっきりと耳に届いた。 「……ティセ……」  同時、リュイは立ち止まった。そして、森のほとりに響き渡るほど大きな声で、名を呼んだ。 「ティセッ…………!!」  心臓がどきりと跳ねる。足が止まる。リュイが駆けてくる足音が、聞こえる。 「…………!」  矢のように駆けてきて、ティセの左腕を背後から右手で取った。そのまま、有無を言わせない強引さで引き寄せ――――……ティセをきつく抱きしめた。  首の後ろ辺りに顔をうずめて、リュイは声をわななかせる。 「……ティセ……」  両腕に込める力はますます強く、息ができないくらいティセを締めつける。  ……リュイ……  呼びかけようと唇を開きかける。が、代わりに出たのは、涙交じりの叫び声だった。 「わああ――――…………リュイ……!」  途端、涙が堰を切って溢れ出る。ぼろぼろと止めどなく零れ落ちる。両腕を背の荷物へ回し、肩に頬をすり寄せて、ティセは思いのたけ泣きまくる。襟もとに巻いた薄布が、絞れるほど涙に濡れるまで。リュイは首の後ろに顔をうずめたまま、泣きしきるティセをひたすらに抱きすくめていた。  やがて、ティセの涙目を見つめて、掠れ声で囁いた。 「いつか……必ず、ナルジャへ行く。おまえを迎えに…………」  ティセは少しだけ潤んだ暗緑の瞳を射るように見据え、 「じゃあ誓えよ! いつか樹に誓ったみたいに、もういちど誓ってよ!」 「――――誓う」  口のなかでそう唱えた声は、小さくもはっきりと意志に満ちていた。  分かれ目に立つ沙羅樹の下で、リュイは荷物を降ろし、なかから短剣を取り出した。木漏れ日の揺れる大地へ突き立てた短剣を挟み、ふたりは両膝をつき向かい合う。  ティセは短剣の柄を左手でしっかりと握る。ともに眼差し強く見つめ合いながら、互いの右と左の手のひらをぴたりと合わせる。形の整ったリュイの右手が、誓いの対象へと静かに移動する。神聖なるその樹にそうっと触れる。辺りは粛然とした空気に包まれる。 「目を閉じて」  ふたりは目を閉じる。心のなかで約束をくり返す。新たな旅をともに歩いて行くと、くり返す。  リュイは粛としながらも揺るぎない声で、言辞を唱える。  誓いの樹が倒れてさえも、誓約は破られない――――――  頭上から、数多のさえずりが降り注ぐ。誓いを見届けた、そう高らかに唄っている。  リュイはすっと立ち上がり、遠くに見える馬車へ向かって、深々と一礼をした。ティセを向き、万感の想いを込めたような眼差しで、ひとしきり見つめた。そして荷を背負い、なにも言わずに背を向けて、歩き始めた。もう、振り返りはしなかった。まっすぐに、道の先だけを見つめていた。  ティセはその後ろ姿から、目を離すことができなかった。小さくなり、木立の合間に消えて見えなくなるまで、リュイを見つめていた。  馬車へ乗り込むと、アズハーは泣きはらした赤い目を見て、とても切なそうに微笑んだ。のち、静かに告げる。 「さて、イリアへ向けて、出発だ」  いななきがふたつ上がる。二台の馬車はガルナージャの森のほとりを走り出す。  車窓を流れていく森の緑を、ティセは黙って眺めていた。湿り気を帯びた濃い緑は、赤く腫れた目を優しく労るように目に映る。切なさに裂かれそうな心を癒し、和らげ、安らぎへとそっと導いている。さながら、笛の()のように――――……。  ティセは笛の音とともに、暗緑の瞳を思う。静けさの立ち込める声音と、木々のささめきに似た耳触りの喋りかたを思い出す。――――それはすべて同じ場所、心のしじまへと通じている。  やわらかな風の吹く、気持ちのいい日には、ティセは決まって思うのだ。  いつかこの耳に、笛の音が届く。その笛の音の先には――――――ともに見つめる道の先が、待っている。      【第十章 了】                            【解放者たち 完】                      →解放者たち 第二部へ続く 【予告】 本作は第二部へ続きます。近日中にUPを開始します。 二年後のティセとリュイ、ふたりは関係性を大きく変容させながら、さらにお互いがお互いを解き放つ新たな旅路を歩んでいきます。 どうぞよろしくお願いいたします。
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