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第十章 22
イリアへの帰路は、アズハー一家とともにすることになった。もとより一家はこの休暇を終えたあとは、イリア支社へ出向く予定であったのだ。シュウを出て、タミルカンドの南にある国へ入り、その首都から汽車に乗るという。汽車は幾つかの国を超え、はるか遠いイリスへ通じている。一年ほど前にリュイが話していた敷設中の長距離汽車が、数ヶ月前から開通しているのだ。
「順調なら、来年の末頃にはシュウのバンダルバードまで通じるはずだ。便利でいいが、世界が狭くなる。それはそれで、つまらんはなしだ」
アズハーは皮肉を言って笑う。
「き……汽車――――っ!?」
まだ見ぬ汽車に、ティセは大興奮だ。
「汽車賃のことは心配しなくていい。きみが同行してくれれば、私も楽しい。是非そうしたまえ」
「で……でも……」
戸惑いを表すティセに、アズハーは自嘲気味に笑んで語る。
「私はね、話し相手に飢えているんだ。日頃、私の周りでは損得しか頭にない上辺だけの連中が群れをなしてお追従ばかりだ。きみのように飾らない、率直にものを言うひとと話をするのが、私にとってはなによりも愉しみなんだ」
小さなシューナを抱いたアズハーの妻も、にこやかに勧める。
「是非そうして。話し相手になってあげてね」
「ううう……でも……」
リュイが小声で口を挟む。
「ティセ。そうして」
「おまえまで……」
「ひとりで帰したら、僕は食事が喉を通らない……」
「……なんだよ、それ!」
心外だとばかりにぼやいた。
出発は四日後だ。懐かしいナルジャへ――――……恋しくてしかたのない母親や、大好きな仲間たち、校長のいるあの村へ。出て行きたくてたまらなかったあの村へ……。そこは還るべき、帰属すべき場所。檻などではない、愛すべきナルジャだ。
出発までの数日を、とても長閑に楽しく過ごした。辺りを散策したり、町へ出かけたり、アズハーを交えて盤遊戯に熱中したり……。リュイとアズハーが目を瞠るような攻防戦を繰り広げるので、ティセは呆然と勝負の行方を見守るだけだったが。
リュイは、たとえば厳冬の夜道から暖かな部屋へようやく戻ってきたときのように表情を緩め、よく微笑いよく話した。相変わらず背筋をぴんと伸ばしながらも、人心地をつけているようだった。縛り付けられていた嘘の重さから放たれたためか、ひどくしなやかに見えた。
のんびりと心地のよい数日――――……まるで、旅の神さまが最後に用意してくれた、御褒美のようなひとときだった。
出発前日の昼下がり、ガルナージャの神木を見納めた。そのまま別邸には戻らず、兄の眠る庭園で話し込む。
空には真っ白な薄雲がきれぎれに浮かび、まぶしいほど輝いている。耳に優しい森の葉擦れと、清らかな小鳥のさえずりが降り注ぐように聞こえていた。
「ほんとにここはきれいだなあ」
石の腰かけにかけたまま、ティセはうーんと伸びをする。
「どこにでもいる貧しい農家の子なのに、こんなにきれいな場所で眠りにつけるなんて……兄は思ってもみなかっただろう」
リュイは墓碑に目を向ける。
「思ってもみないのは俺もだよ! 最後にこんな贅沢な毎日を過ごせるなんて、思ってもみなかった! アズハーさんの別荘、はっきり言って高級旅館並みなんじゃない? 高級旅館なんか泊まったことないから分かんないけどさ……」
「ん……そうかもしれない」
「部屋は豪華できれいだし、布団は真っ白でふかふかだし、飯だってすごく美味いし、なんたって毎日肉が出る!」
まくしたてるティセを見て、リュイは可笑しそうに口角を上げた。
「おまえはまだしばらくは、そんな旅が続くだろう。帰りの汽車もきっと一等車だ。僕はまた安宿か野宿だ…………落差が激しい……」
「あはは。そうだね、俺はほんと、幸運の持ち主だ」
ふふんと、自慢げに腕を組んでみせる。
「ティセ、アズハーさんと同行するの、とても楽しみだろう?」
「そう、分かる? あのひと、すごくおもしろい! 俺の知らないいろんなこといっぱい知ってるし……。なんといってもさ、あのひとの半分くらいしか生きてない俺たちなのに、あしらったりしないで気さくに付き合ってくれるとこがいいよね、しかも大富豪なのに……。おまえが命の恩人の弟だってことを考えてもさ……。なにか、ひとと違う基準を持って生きてる感じがするよね」
「確かに……そんな気もする」
すぐそこの木の上で、灰白色の毛色をした顔の黒い猿が数匹、長い尾をしならせて枝から枝へと飛び移った。ざざざ、と鋭い葉音が上がり、ふたり同時に目を向ける。その見事な跳躍を見て、かつてひと売りに追われた際、リュイが自分を掻き抱いて闇へ跳んだことを思い出す。信じられないその事実に、瞠目して戦いたあのときを。
からかうように横目で見て、
「おまえもあのくらいできるだろ?」
猿と同等のように言われて、リュイは機嫌を損ねた声音で返す。
「…………なにを言うの、おまえ……」
けけけ、とティセはせせら笑う。
信じられないようなことが、さまざまあった。宝物さながらの一年を、リュイとともに過ごした。別れは本当に明日なのだ、黙してしまうとしんみりしそうで、ティセは少し怖いのだった。それでも、はぐらかさずに前を向いていたい。
にわかに真面目になり、リュイへ問う。
「それで……これからどこへ向かうか、決まったの?」
途端、リュイは瞳に憂鬱を浮かべた。最大都市バンダルバードが近いので、とりあえずはそこへ向かうと話していたが、その後については決められずにいるようだったのだ。
「…………」
なにか返すのを、ティセはのんびりと待った。やがて、リュイはじつに頼りない言葉つきで答えた。
「……ティセ……別れる前に、僕の行き先を……決めてもらえない?」
思わず大きく溜め息を漏らし、がっくりと項垂れた。
「……おいおい! まったくさー……行き先のひとつも決められないなんて、俺よりおまえのほうがずっと心配だよ! せっかくの美味い飯が喉を通らないよ!」
リュイはうつむき加減になって黙った。口元が「だって……」と言いたげに見える。しかたがないので、ティセは考えた。
「じゃあさ、もっと南のほうへ行ってみたら?」
「南へ?」
「そ。ずっと前、おまえ言ってたじゃん。イブリア族の起源はもっとずっと南のイブリアってとこに住んでるひとびとだって。自分たちの先祖を辿ってみたら?」
イブリアである自覚が薄いためか、リュイは不思議なことを聞いたかのようにきょとんとしていた。
「目的地がないよりいいんじゃない。行ってもなにもないかもしれないけど、もしかしたら、そこになにかあるかもしれない」
「……なにか……」
「そうそう。おまえはこれから、ライデルの占い師が言ってた、自分を導くもうひとつのものってやつを探してみたらいいよ」
もうひとつのもの……口のなかで唱えるようにつぶやく。ややあって、リュイはまっすぐに前を見据えた。まだ知らないもうひとつのものに、目を澄ましているように。
「……そうしてみる」
「いつかきっと、見つかるよ」
ティセは心強い笑みを向けた。
陽がだいぶ西へ傾いた。青空はいつのまにか色褪せて黄みを帯び始め、腰かけに座るふたりの影も、来たときより長くなっていた。庭園は木々に囲まれているため、もうすぐに日差しが届かなくなる。最後の昼がまもなく終わりを告げる。明日のいまごろは、もう目の前にリュイはいないのだ。
打ち明けるときが、ついに来た――――――……
ティセは目をつむり深く息を吸う。そして、静かに、とても静かに吐き出した。意を決して目を開ける。
「リュイ」
やおら立ち上がり、正面を向ける。じっと目を見つめる。急に改まったようになったティセを見て、リュイは訝しげに眉根を寄せる。
「なに?」
「いまから言うことをよく聞いて。おまえはめちゃくちゃ驚くだろう。でも、冗談なんかじゃない、本当のことだ」
「……なに?」
ますます不審そうに問う。
「孤児だと言ったのはすぐばれた。……でも、隠してたことはもうひとつあったんだ」
「……隠しごと? なに?」
「もういちど言う。よーく聞けよ」
一旦切る。目を見据えたまま、はっきりと告げる。
「俺は――――……ティセ・ビハールは、女の子なんだ」
葉擦れの音や鳥の声は決して止まないのに、シンと静まりかえったように感じた。リュイは聞こえなかったみたいに表情を変えない。少しも変えない。ただ、眉根を寄せたまま黙っている。
沈黙が流れる。
「……聞こえたか?」
痺れを切らして尋ねると、リュイは長い溜め息を返した。
「ねえ……それは冗談のつもり? その嘘になんの意味があるのか…………僕には少しも分からない……」
真意を測りかねて困じているかのように、ティセの顔を見上げた。
「し、信じない……!?」
「…………」
「冗談なんかじゃないってば! 真実だ!」
「…………」
リュイは本当に困っているようだ。
「……分かった。いま俺の身分証を見せてやる。よく見たことなかったろ?」
ティセはリュイの背に回り、さらに背を向けて、衣服の内側に身につけている身分証を取り出した。
「ほら、見てみろよ」
体温でほんのりと温まった身分証を、リュイは手に取った。性別は女だと明白に記載されている。それをじいっと眺め、ぱっと顔を上げる。驚きの目を瞠り、
「……記載が間違っている。これでよく国境を通れたな!」
「合ってるよ!!」
ここまで信じてもらえないとは思っていなかった。ティセは唖然としてしまう。
とにかく打ち明けたのだから、義務は果たした。たとえリュイが信じなくとも、果たしたことに変わりはない。けれど、それではティセは気が済まない。
舌打ちをして、リュイの手から身分証を引ったくり、とりあえず衣嚢へ押し込んだ。墓碑を取り囲む三色の花々を小憎らしい思いで睨みつけながら、暫し思案する。
「…………しょうがねえなあ…………」
忌々しげにつぶやいてから――――……ティセは厚手の布地で作られた胴着の釦を無言で外し始める。すべて外してしまうと、
「ちょっと手を貸せ!」
リュイの右手首をがしりと取って、その手のひらを胴着の内側に滑り込ませた。上衣に包まれた左胸の上に手のひらを置き、さらに左手をもってぎゅうと押し当てる。
しばらく、リュイはぼんやりとしていた。なにが起きているのか分からず、思考が途切れたかのように。が、にわかに顔色を失い、うっかり火に触れてしまったときのような速さで手を引いた。そして、顔の隅々、指の先までもを凍ったように強張らせた。わずかに開いた唇も凍りついているように硬く見え、声など出せるわけもないのを物語っていた。目の前のどこか一点を見つめているような目をして、完全に停止した。
ふたたび、沈黙が流れる。
衝撃と驚愕のさまを眺めているうちに、ティセは沸々と可笑しさが込み上げてきた。口角をにやりと押し上げて、故意に問う。
「ささやか過ぎて分かんなかったか?」
ことさら堂々と立つティセの顔を、リュイは上目遣いで睨め付けた。まだ半ば凍っている唇を震わせて、息だけの声で這うように言う。
「……何故、言わない……」
「だって……」
急に立ち上がり、
「何故、言わない!?」
ティセをまっすぐに見下ろして、軍隊仕込みの大声を上げた。
途端に迫力を増したリュイを前にして、ティセは一瞬怯んだ。けれど、負けない。
「言ったらおまえ、旅の仲間にしてくれなかっただろ!」
「それは……」
「村に戻れって言っただろ!」
「…………」
睨みながらも黙した。やがて、再度這うような口ぶりで、
「……おまえこそ、大嘘つきだ……」
ティセは語気を強める。
「ちょっと待った! 俺は自分のことを男だなんて、いちどだって言ってないぞ。よく思い出してみろよ!」
「まさか……!?」
「言わないよ! 確かに隠してた、でも男だとはひとことも言わない。言ったら本当に嘘になっちゃうからな。おまえが一方的に誤解して、それをわざと訂正してこなかっただけだ」
「…………」
リュイは視線を落とし、ひたすら呆然とした面持ちで立ちつくす。追い打ちをかけるように、ティセは続ける。
「だいたいさー、一年もずっと一緒にいて気づかないなんて、どうかしてるよ。考えてみれば失礼なはなしだぞ?」
はっと気づいたように顔を引きつらせた。ややあってから、
「……ごめん」
ぽつりと謝った。リュイがそういう率直な言葉を使って謝罪したのは初めてだ。ティセは少し驚いた。
「いや……謝らないでよ、隠してたのは事実なんだから……」
慌てて宥めるも、完全に項垂れてしまった。
「……おまえだけじゃないよ、たいていのひとは俺を男だと思うみたい。でも……セレイには見抜かれた」
「セレイが……!?」
「そ。あと、フェネも間違いなく気づいてたよ。俺がおまえに隠してることにも、たぶん気づいてたと思う」
「…………」
「見抜いたのはふたりだけだ。だから気にしなくていいよ」
しばらく黙っていたが、リュイはふいに「あ……!」と小さく声を上げた。目元をかすかに震わせてティセを見遣り、
「……ザハラの言っていた月って……おまえのことか……」
「え? なに?」
信じられないと言いたげに眉根を皺め、
「……なんでもない。占いの意味が少し分かっただけ……」
まるで独りごとのように言った。
驚きすぎて気が抜けてしまったのか、リュイはふたたび腰を下ろした。ひどく疲れたような顔をしている。すっかり消沈してしまった様子を見ていたら、さすがに気の毒になってきた。
ティセは少しくしおらしくなって、改めて謝罪をする。
「ずっと隠してて……ごめんね」
視線を落としたまま、なにも返さない。
「…………リュイ、ひとつ聞いていい?」
今度は目を上げた。ティセは真剣な眼差しを向けて問う。
「俺が女なら…………相棒じゃなくなるの?」
束の間、リュイは黙していた。が、目を見て答えた。
「なくなるわけがないだろう。おまえは、おまえなんだから……」
ティセは心から安堵した。
庭園と別邸をつなぐ小道は、きれいに整備された歩きやすい道だ。にも拘わらず、リュイはなかなか動揺が収まらないのか、帰りしな二度も蹴つまずいた。二度目、よろけて体勢を立て直したのち、やるせないと言わんばかりに長い溜め息をついた。そして、ひどく複雑そうな面持ちで、右の手のひらをじいっと見つめた。
ティセはつい、
「おい!」
その手をびしりと叩き払った。リュイは顔をはっとさせ、それから、どうしようもなく居たたまれなそうに目を伏せた。
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