奇妙な文通

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奇妙な文通

 三十五年ほど前。  まだ携帯電話もインターネットもなかった時代。  CDという、キラキラ光る円盤状のものが、一般的になってきました。  レコードやカセットテープと違い、劣化しないので、傷さえつかなければ、ずっと好きなアーティストの歌声を聴くことができる、当時は大変優れたものでした。  これは平成に元号が変わる前の年の、夏の出来事……。  雅人が運転する車の助手席で、私はグローブボックスを開けて、CDを見繕っていた。  雅人は次から次へとCDを買う。本当に好きなアーティストのCDなのか、疑問だ。  雅人の親は雅人に甘い。  大学生の雅人に車を与えたり、大学生には不似合いなちょっと高級なマンションに住まわせたり、充分すぎるほどのお金を常に振り込んであげたりする。  デートのたび、雅人に食事をごちそうになったり、こうして車であちこち連れていってもらったりしているから、私はおこぼれをちょうだいしている、とも言える。  だからあまり批判めいたことは言えないが、雅人が口癖のように 「俺、刹那主義だから」 と自分に酔っているように、遠い目をして言うたびに、甘やかされて育っちゃったんだなあ、と思う。  私はCDケースを一枚手に取った。 「雅人、このCD、買ったの?」  それは先週の水曜日に発売になった、とても人気のあるバンドの最新アルバムだった。 「あー、買ったよ」 「ねえ、これ貸して!」 「いいよー」  嬉しい。欲しかったが諦めていたのだ。私は貧乏学生だから、CDを買うなんて、ちょっと贅沢なことだ。 「入ってるブックレットも見た?」  ブックレットというのはCDが一般的になってから出来たもので、歌詞カードとミニ写真集がひとつになった薄い冊子、というような概念らしい。  CDアルバムのブックレット用にのみ撮影した写真が載っているので、ファンにとってはお宝だ。 「俺、そういうの、見ないから」  そうだった。雅人はブックレットを見ない。 「なんで?歌詞も書いてあるよ」 「歌詞読みながら運転したら、死ぬよ?」  そういうことではなくて……。まあいい。 「じゃあ、借りていくね」  私はCDを自分のトートバッグに入れた。  翌日。  大学の授業が終わってアパートに帰ってきた私は、雅人から借りたCDをじっくり聴くために、ブックレットをテーブルに置き、CDをかけた。  狭いワンルームの部屋に、優しく、少し甘い、男性ボーカルの声が静かに流れる。  ああ、素敵。  私は写真を見ようとして、ブックレットをぱらぱらめくった。  そして、一枚の小さな紙が挟んであることに気づいた。  何気なく開いて、私はヒュッと息を飲んだ。 『このメモを読んだあなたが雅人の恋人なら、雅人は二股をしています』  え……えっと……え?これ、なに?  こういう時、なぜ人は何度もその一文を読んでしまうのだろう。  雅人に二股をされている……。なるほど。  私は全然気づかなかったが、このメモを書いた人は何か違和感があったんだな。  ブックレットに挟んだということは、雅人がブックレットを開かない人だということを知っているからだ。  そしてこのCDに挟んだ理由は、同じバンドの、ひとつ前のアルバムも、私が雅人から借りたことを、この人が気づいているからだ。  このCDが発売されたのは先週の水曜日。今日は火曜日。昨日の月曜に私は雅人とお昼から夜までデートをした。土日は会わなかった。雅人が友達と一泊でキャンプに行くと言ったからだ。木曜と金曜は会っていないし電話もしていないけど、土日があやしい、と考えるのが普通だろう。  雅人のもう一人の彼女らしき人物が、土日に雅人と会って、このメモをブックレットに挟んだ、ということだ。  しかし一体、なぜこんなことを?私に自分の存在をアピールしたかった?それとも私に雅人と別れてほしいという意味?いや、別れてほしいなら、メモに『別れて』とか『本命は私よ』とか書くだろう。  わからない。  私は考えて、考えて……。  ブックレットにメモの返事を入れて、雅人の車のグローブボックスにCDをしれっと返すことにした。 『休日の彼女さん、今まで気づかなくてごめんなさい。私が雅人と別れるのですか?私がですか?』  しおらしく、しかし抵抗のニュアンスも添えてみた。  いいかも。私、ちょっとセンスあるかも。  人はこういう時、何度もその一文を読んでしまうものだ。  私が雅人の車のグローブボックスにCDを返してから、土日を挟んだ翌週の平日の夜。  私は雅人の車の助手席にいた。  グローブボックスが気になる。あのCDを手に取りたい。確認したい。  しかし雅人の前では控えたい。  雅人がお勧めのレストランに連れていってくれるようなことを言っていたが、私はCDが気になって、上の空だ。 「あれ?今日、体調いまいち?」  雅人が気にかけてくれる。雅人は優しい。 「コンビニでジュースでも買ってこようか?」  チャンス! 「うん……お願いできる?」  雅人はコンビニの駐車場に入ると、 「すぐ戻ってくるから」 と言い残して、お財布だけ持って、早歩きで店内に入っていった。  雅人、ごめんね。でも今のうち。  私は急いでグローブボックスを開けた。先日借りたCDは、重ねてある何枚ものCDの、一番上に載っていた。  私はCDケースを開き、ブックレットを引き抜いた。素早くめくると、二つ折りになった小さく白い紙が、膝の上に落ちた。  急げ、急げ。  私はブックレットをケースに納め、パッとグローブボックスにCDを片付けた。  そしてメモを開いた。 『平日の彼女さん、あなたは雅人のどこが好き?』  どこが好き?……どこが?好き?  頭の中で疑問符がぐるぐる回る。  私、雅人の、どこが、好き?この質問、なに?  そのときガチャ、と運転席側のドアが開いた。 「外、暑いなー。はい、ポカリスエット」  雅人は運転席に座ると、私の手にペットボトルのポカリスエットを置いた。ひんやりして気持ち良かった。 「ありがとう……」  私は……雅人の優しいところが好き。たぶん。 『休日の彼女さん、私は雅人の優しいところが好きです。あなたは?』  デートの終わり頃、私は手帳の一ページを破り、雅人の目を盗んでメモをブックレットに挟んだ。  それから毎週、雅人の彼女、という見知らぬ女性と、不思議な文通状態が続いた。 『平日の彼女さん、私は雅人の子供みたいなところが好き。世間知らずで、刹那主義を気取ってるところが好き』 『休日の彼女さん、私は雅人の刹那主義が嫌い』 『平日の彼女さん、雅人は本当に優しい?優しかったら二股なんてしないよ』 『休日の彼女さん、それをわかってて、なぜ別れないの?』 『平日の彼女さん、私はまだ別れたくない。もう少し、気持ちが冷めるまでは』 『休日の彼女さん、私ももう少し気持ちが冷めるまでは別れない』  そんなやり取りがあり、ずるずると雅人との関係も、もう一人の彼女との関係も続いた。  そうしているうちに、頻繁に借りるCDのブックレットが少し傷んできた。  これはまずい!  慌てた私は少ない仕送りからなんとか工面して、同じCDを買った。そして雅人のCDのブックレットと交換した。  買ったばかりなのに、折れて、指紋もベタベタ沢山ついて、何度も開いたような跡がついているブックレットが入った、私のCD。大好きなバンドの……。  私、なにやってるんだろう。  初めてつきあって、大好きだと思っていた彼には二股されていて、しかも私が本命かどうかもわからない。二番かもしれない。好きなバンドのアルバムは、せっかく買ったのに、ウキウキした気持ちでCDケースを開くこともできない。  私はお菓子の空き箱に入れていた、休日の彼女さんからのメモを全部、テーブルにぶちまけた。  何枚か手に取ってみる。 『最近、雅人と水族館に行ったでしょ。私、誘ったら断られた』 『この夏は雅人と海に行かせて。来年はあなたに譲るから』 『雅人と同じ大学で羨ましい。私は社会人だから、平日は会えない』  なんだか彼女の切ない気持ちが見え隠れしているような気がしてきた。  私の存在を認めながらも、本当は雅人に二股をやめてほしい、自分だけを愛してほしい、そう思っている。でも雅人の反応が怖くて、フラれたくなくて、言えないのかもしれない。  本当は私の存在が嫌でたまらないだろう。でも彼女は私を責めたことが一度もない。 「素敵な人かも……」  私は乱雑に広がっているメモを見ながら、一人、呟いた。 「雅人、私達、別れよう」  季節がすっかり秋になり、イチョウの木が黄色い葉でいっぱいになった頃。私は雅人の車の助手席で、そう言った。  鞄の持ち手の部分を握っている手に、ギュッと力を込めた。 「なんで?」  雅人は心底驚いていた。 「雅人、刹那主義とか理由つけて、ラクしてるだけじゃん。今は雅人は三年で私は二年だけど、たぶん再来年には同じ四年をやって、私は卒業して、雅人はまた四年だよ?」 「そうだけど……なんとかなるっていうか。こんなに景気がいいんだしさ。この好景気、ずっと続くって経済界の人、みんな言ってるよ?」  そうだけど……。そういうことではなくて。 「景気の話じゃなくて!お別れしたいの!」  雅人はハンドルにおでこをつけると、しばらく唸ったり、無言になったり、を繰り返した。  そして 「うん、わかった……今までありがとう」 と言って、右手を差し出した。  私達は握手を交わした。大きくてあたたかくて、苦労をしていないきれいな手だと思った。 「借りてたCD、返すね」  私は新しいブックレットを入れた、お気に入りのバンドのアルバムを、グローブボックスに丁寧に収納した。 『休日の彼女さん、私は雅人と別れます。あなたの存在には気づいていなかったことにしています。相手が雅人でも雅人でなくても、あなたが幸せになることを願っています』  ブックレットに挟んだ最後のメモを、私は一度も読み直さずに、CDケースを閉じた。  あれから三十五年。  私の手元には、お気に入りのバンドのCDと少し劣化したブックレットが残っている。  CDを再生させると、男性ボーカルが甘く、優しく、包むような歌声で、私を過去へと導く。  奇妙な文通をしていた、あの頃へ。
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