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episode.1 青い恋
俺は右手を掴んだ。目の前には可憐な少女。ただし、掴んだのは少女の手ではなく、爪がぎざぎざの、下卑た中年親爺の手だった。勢いのまま、俺は大きく声を上げた。
「この人、痴漢です」
変態親爺を駅員へ突き出し、駅員が警察に突き出す。一連のリレーを見届けてから、少女と駅のホームで二人きりになってしまった。少女は制服を着ており、推定高校生、下手をすれば中学生にも見える。駅員は少女に、今日は学校は休み、親を呼んで家に帰るように勧めた。
が、少女は一言、「親には迷惑をかけたくないので」と言って、元の路線に乗るためにホームで電車を待った。案外気丈な子なのかな、と思った。が、駅員室を離れていく少女の瞳が、恐怖と哀しみに揺れるのを、俺は見逃さなかった。そうして俺も、思わずホームへと出ていってしまった。
それにしても気持ちが悪い。さっきの変態親爺、こんな学生に手を出すなんて、と思えば思うほど、気持ち悪さが増す。それは変態親爺に向けた気持ちではなく、俺自身に向けたものだった。
どういうことかというと、つまり俺は一目惚れしてしまったようだ。誰に?紛れもない、こんな学生に、だ。
親爺の手を掴んだのは、ほぼ反射的だった。満員電車の人混みの中で、制服のスカートに伸びた男の手を見つけた瞬間、脊髄反射で悪と判断し、即刻で掴んだ。すると、被害に遭っていた制服の女の子が、長い髪を揺らして振り返った。
俺は息が止まりそうになった。こんなにも可憐で、美しい女性がこの世にいるとは。少女は大きな目をさらに見開いて驚いた顔をしていたが、その瞳に見つめられると、かあっと顔が熱くなる。俺は親爺の手を掴んだ勢いのまま、痴漢を摘発したのだった。
「あの、ええと」
痴漢の腕を掴むのは容易だったが、声を振り絞るには幾分か勇気を要した。が、すぐに考え直し、「いえ、何でもないです」と言い直した。
そう言うと、一度こちらを振り向いた少女は、すぐに視線を前に戻した。何だか、情けない。情けないぞ藤井。自分自身に喝を入れながらも、結局俺は身を引いた。今、痴漢にあったばかりの少女と親しくしようなんて、デリカシーがないにも程がある。俺はこの感情を忘れるべく、少女とは違う車両に乗り込んだ。
が、俺はこの恋を忘れることはできなかった。芽生えてしまった恋。何を隠そう、この歳になって初恋だった。
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