第二章 灰の夢間に煌る黒

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俺が違和感を抱き始めたのは、おそらくは大浦先生の朗読が聞こえなくなった辺りからだったと思う。 あれ、なんだか変だな?と、眠気で朦朧としつつあった心の中に、ぼんやりとした違和感が浮かび上がってくる。 その違和感は、ぼやけ気味だった俺の意識を次第にハッキリとさせていく。 俺は耳を澄ませて教室の様子を伺う。 そこで、俺は気が付いた。 聞こえなくなっていたのは大浦先生の声だけではないことに。 教室中がシーンと静まりかえっていたのだ。 大浦先生が朗読を止めてみたところで、教室の中に何らかの物音はしているもんだろう。 教科書をめくるパラパラとした音とか、椅子と床とを擦れさせる耳障りな音だとか、あるいは、それぞれの身動きが醸すささやかな(ざわ)めきとか。 けれども、教室を満たしているはずの様々な物音の一切が聞こえなくなっていたのだ。 それはまるで、俺の耳が塞がれてしまったかのように。 それに気付いたとき、俺はまさしく血の気が引くような思いを抱いてしまった。 俺は驚き、そして戸惑う。 疑問が急激に心の中へと湧き上がってくる。 一体、何が起きたって言うんだ?と。 もしかしたら、俺が居眠りしかけていることに気が付いた大浦先生とクラスメイト達がドッキリでも仕掛けようとしているのか?と思った。 いや、むしろそうであって欲しいと思っていた。 でも、決してそんな感じなどではなかった。 上手く言えないけど、何か危うげな雰囲気の静けさだった。 それは、漂う音が何者かに奪い去られてしまったような静けさと言ったところだろうか。 訳も分からぬ俺は、ただただ戸惑うばかりだった。 そんな俺の戸惑いを嘲笑うかのように、更なる異変が俺を取り巻く景色の中に姿を現わし始めていた。 その異変は窓の外に現れつつあった。 つい先程までは抜けるような青であった空の色。 その空は、今やノッペリとした灰色へと染め上げられてしまっていたのだ。 灰色に染め上げられた空を目の当たりにした時、俺は自分の目が信じられなかった。 眠さのために視力が変になってしまったんだと思った。 目を(つむ)り、閉じた瞼へグッと力を込める。 目を開き、何度か(まばた)きをし、そして再び空を見遣る。 けれども、空の色は相も変わらず無表情な灰色のままだった。 落胆、焦り、そしてじんわりとした不安とが心の中へと湧き上がる。 不安に心を占められつつある俺の目に、更なる異変の様が飛び込んで来る。 まるで追い打ちを掛けるかのようにして 空だけでなく、窓の外に見えるあらゆるものが灰色へと染め上げられつつあったのだ。 校庭に植わっている木々も、その向こう側に見える家々の屋根も。 木々が湛えていた鮮やかな緑、家々の屋根を彩っていた赤や青、あるいは黒や茶。 その全てが灰色へと置き換わりつつあったのだ。 目に入るあらゆるものが空に接している部分からゆっくりと灰色に侵されていく、そのような感じだった。 戸惑い、狼狽えた俺は、灰色に塗り潰されつつある窓の外の景色から目を逸らした。 そして、教室への前方へと視線を泳がせる。 教壇に立つ大浦先生の姿が俺の目に飛び込んでくる。 俺は思わず息を呑んだ。 教壇に佇む大浦先生は、その動きをピタリと止めていたのだ。 やや俯き加減の姿勢でいて、開いた教科書をその左手に持った状態からピクリとも動こうとしない。 銅像の真似をしているパントマイマーを何かのイベントで見掛けたことがあるけれども、今の大浦先生の姿はまさしくそんな感じだった。 けれども、この真面目な大浦先生がパントマイムの真似事なんてする訳なんて無いだろう。 しかも、よりによって授業中なんかに。 呆気に取られた思いを抱きつつ、俺は動かなくなった大浦先生の姿を凝視する。 そこで俺は気が付いた。 固まったような大浦先生のその姿も、窓の外の風景と同じようにジワジワと灰色へと染め上げられつつあることに。 しっとりとした黒色を湛えたショートカットの髪の毛、身に纏った裾の短い濃紺のジャケット、そして左手に持った教科書。 そのどれもがジワジワと灰色へと染め上げられつつあったのだ。 俺は改めて気が付かされる。 動かなくなってしまったのは大浦先生だけではないことに。 教室中のクラスメイト達が、まるで凍り付いたかのようにしてその動きを止めていたのだ。 そして、大浦先生と同様に、皆もジワジワと灰色に塗り潰されつつあったのだ。 俺の前の席に座っているクラスメイトもそうだった。 身動き一つしない彼の背中に灰色のシミがポツンと生まれた。 白いシャツに包まれた背中の真ん中に灰色のシミがポツン浮き出る様、それは違和感に満ちていた。 最初は点でしかなかったその灰色のシミは、ジワジワと背中一面へと拡がって行った。 見る見る間に頭や手足へと拡がっていき、程無くして全身を灰色に染め上げて行ったのだ。 大浦先生やクラスメイト達だけではなく、教室の中のあらゆるものが灰色に塗り潰されつつあった。 教室中の至るところ、壁や天井そして床に小さな灰色のシミがポツリと生じる。 そして、灰色のシミは、その色を濃くしながらジワジワとその大きさを拡げて行った。 壁も天井も床も、そのどれもがジワジワと灰色に塗り潰されつつあった。 教室の中の時間が止まりつつある。 そのように感じられてしまった。 教室の中からありとあらゆる熱と彩りが奪われつつある。 そんなふうに思えてしまった。 これまで味わったことの無いような混乱が、そして言いようのない恐怖が急速に俺の心を満たし始める。 そして、俺は心の中にて絶叫する。 一体何だ、何なんだこれは? 俺も、このまま灰色に染め上げてしまうのか? 俺も、時間が止まってしまうのか? 大浦先生のように、そしてクラスメイト達のように。 そうなると、俺は一体どうなってしまうんだ?! まるで早鐘のように、心臓がドクンドクンと脈打ち始める。 知らず知らずのうちに呼吸が速くなる。 いつの間にか喉がカラカラとなる。 俺は改めて気が付く。 つい先程までは教室を吹き抜けていた微風がパッタリと止んでいたことに。 汗の粒がタラリと背筋を(したた)り落ちて行った。
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