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ようやく古文の授業は終わった。
教室を立ち去ろうとしている大浦先生の周りへと二、三人の女子が駆け寄り、口々に何かを話し掛けている。
仲の良いクラスメイト達が俺の席へと歩み寄ってきて、古文の授業中の失態を口々に冷やかしてくる。
「うるせーよ!」などと抗議する俺。
「眠気覚しじゃー!」などと口走りつつ軽く腹パンしてくるクラスメイト達。
普段と変わらぬ賑わいに身を浸し、普段と変らぬクラスメイト達の姿を目にし、そして普段と変わらぬ談笑を彼らと交わしていると、古文の授業中に見た奇妙な夢の感覚は次第に薄れていくように思われた。
冷え冷えとした沈黙に満たされ、全てが灰色に染まりつつあったあの情景は悪い夢だったんだと俺は自分に言い聞かせていた。
一頻りクラスメイト達と談笑を交した後、俺は席を立って洗面所へと足を向ける。
次の授業が始まる前に顔でも洗い、少しでも眠気を覚まさなければと思ったのだ。
廊下へと歩み出た俺は、つんのめるようにして足を止めた。
そこには竺紫野琴羽が俺の行く手を遮るように立ちはだかってっていたのだ。
俺は思わず息を呑む。
俺が抱く困惑を知ってか知らずか、彼女はその口を開き、俺へと問い掛けてきた。
感情の起伏などまるで感じられないような、抑揚の無い淡々とした声で。
「古文の授業中、私と目が合ったでしょ?」と。
伏し目がちなその顔、そして黒縁眼鏡に半ば遮られたその瞳からは、竺紫野琴羽の感情の動きは、まるで読み取ることが出来なかった。
俺は答える。
内心の狼狽えを気取られぬようにして。
「あ……、あぁ。
授業中、居眠りから醒めた後ね」と。
竺紫野琴羽はその首を左右に振り、そして再び問い掛けてきた。
先程と変わらぬ淡々とした口調にて。
「そうじゃなくて。
『灰色の夢』の中で、私と目が合ったでしょ?」と。
俺は、思わず言葉を失った。
あの夢での出来事を竺紫野琴羽の口から聞くだなんて、もう驚き以外の何物でも無かった。
そして、改めて思う。
夢だと思い込もうとした灰色の世界、あれは一体何だったんだよ、と。
竺紫野琴羽は、俺の動揺した様を目にして満足したようだった。
答えを待たぬままに俺の脇を通り過ぎ、教室の中に戻ろうとした。
俺は身動きひとつ出来ないままだった。
竺紫野琴羽は、俺の背後にて立ち止まったようだ。
「かぎりなき
雲居の余所に別れるとも
人を心に 送らさむはや」
俺はハッとして振り向いた。
「貴方が『灰色の夢』を見た時、
大浦先生が朗読していた平安時代末期の歌。
『詠み人知らず』」
「それじゃ。
放課後にまた」
淡々とした口調で呟くようにそう告げた竺紫野琴羽は、振り向くこと無く、そして俺の答えを待つことも無いままに教室の中へと戻って行った。
戸惑う俺の耳に六限目の開始を告げるベルの音が飛び込んできた。
そうだ、次の授業は数学だった!
急いで席に戻らなければ大変なことになってしまう!
教室の中からは生徒達を席に着くようにと促す苛立ったような声が響いてくる。
数学担当である平良先生の声だ。
平良先生は三十になったばかりの男性教師だ。
教え方は丁寧だし熱意に溢れているけど、気は短くて怒りっぽかったりもする。
おっとりタイプで優しい雰囲気の大浦先生とは、まさに対照的といった感じだ。
平良先生の声に急かされるようにして、俺は慌てて教室の中へと駆け込み、そして席へと着く。
結局、洗面所には行きそびれてしまった。
けれども、先程までの眠気は完全に吹き飛んでいた。
しかし、吹き飛んだ眠気の代りに俺の頭を占めていたのは、竺紫野琴羽が言うところの『灰色の夢』に対する疑問、そして、彼女の瞳の印象だった。
『灰色の夢』のこをと思い出すと、心が不安に覆われ、冷え冷えとしてしまうようだったし、まるで夜の闇のような彼女の瞳の色合いを思い出すと、心強さにも似た思いが胸の中へと拡がって行くようだった。
そのせいか、俺は数学の授業に集中することができなかった。
気も漫ろな俺の様子を見て取った平良先生から、ガッツリと怒られる羽目になってしまった。
数学の授業が終わった後、「ボーッとしてんじゃね~!」と、またもクラスメイト達から腹パンを食らった。
そして、放課後のこと。
部活を終え、幼馴染みの織殿聡美との待ち合わせ時間を気にしつつ校門を出ようとした俺は、そこで待ち受けていた竺紫野琴羽に遭遇したのだ。
古文の授業が終わった後、廊下にて彼女が告げた通りに。
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