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第三章 虚ろなかげと浄き闇
潮気を含んだ夜風がふわりと頬を撫で去って行く。
その冷ややかさは、俺の思考を午後の回想から現実へと引き戻した。
俺は依然として市立病院の屋上に『竺紫野一味』の三名様と一緒に佇み、そして両の肩を登也先輩のたくましい両手に掴まれたままだった。
今の俺の状況、それはまるで鋭い爪を備えた鷹のその両足にガッチリと捕らわれて、雛たちの待つ巣へと運ばれていく哀れなウサギか何かのように思えてしまう。
緋奈先輩の誘いに調子良く乗ってしまった一時間前の自分が何とも恨めしく思えてしまった。
そんな思いを抱きつつ、俺は何とはなしに街のほうへと視線を向けてみる。
ボンヤリとした光を湛えた満月の姿が俺の目へと飛び込んできた。
日が暮れてからまだ間も無いためだろうか、その満月の姿は随分と曖昧だった。
その輪郭はハッキリしてなくて、その曖昧な環の中に湛える光もまたボンヤリとしていた。
朧な満月ってキレイだよね、うんうん、風流だな~と、俺の思考は現実逃避に走ろうとする。
屋上に無断で立ち入っていることが病院の人に見つかってしまい怒られるかもしれないという怯えや、登也先輩から拷問のようなマッサージを受けているという痛み。
そして、放課後の約束を破ってしまったことで後々課せられるであろうペナルティ。
僕を取り巻く現実は何とも切なくて、それから考えを逸らしたかった。
けれども、そんな俺の心の中には何とも言えぬ違和感がじわじわと込み上げつつあった。
それは、目に映る月の姿に呼び起こされたものだった。
込み上げる違和感を確かめるかのようにして、俺は思い出す。
確か……、昨夜まで月なんて出ていなかったよな、と。
昨日も部活に行ったんだけど、その後は約束など特には無かった。
だから、トレーニングを終えた後、部室で他の部員たちと一頻り雑談してから帰途へと就いた。
その頃はもう随分と暗かったけど、夜空に月なんて浮かんでいなかった筈だ。
家の前に帰り着いたのは、今と同じくらいの時間だったと思う。
ふと見上げた夜空にはチラホラと星が瞬いていただけだったし、電柱に取り付けられた蛍光灯が黒々とした夜空を背にして寂しげに明滅を繰り返していた様が目に付いたくらいだった。
それなのに、いきなり満月が出てくることってどういうことなんだろ?
そんな疑問を抱きつつ、俺は空に浮かぶ満月の姿を今一度見詰めてみる。
俺が目にしている朧な月は、その姿にどことは無い違和感を漂わせていた。
普通、月って自分から光を放っているような感じだと思う。
白っぽく見えたり、青白く見えたり、あるいは赤みがかって見えたりすることもあるけれども、柔らな光を放って夜空を照らし、そして地表へと光を投げ掛けているような感じだと思う。
けれども、今、俺が目にしているあの『月』からは、それとは異なる印象を受けてしまった。
確かに『月』のその姿自体に光を湛えてはいる。
けれども、それは自分から光を放っているって感じなんかじゃない。
例えるなら、周りから光を奪い取って、そして『月』の環の中にその光を湛えているような印象だ。
だから、結果的に光っているように見えるといった印象をあの『月』からは受けてしまう。
『夜空にポッカリと空いた、光を吸い込む虚ろな穴』といった表現が俺に心に浮かび上がる。
そんな思いを抱きながら再びその『月』を見上げると、何やらざわめくような気持ちが心の中に湧き上がって来てしまう。
不快感と言えばいいのだろうか、寒気と言えばいいのだろうか、あるいは恐怖に似た感覚とでも呼べばいいのだろうか。
とにかく、ゾワゾワとした居心地の悪い感覚が俺の心を蝕み始めていた。
あの『月』は普通の月などとは何かが違う、そう感じてしまった。
あの『月』は決して好ましいものではない、そう思ってしまった。
そんな気持ちを抱きながら、その『月』へと目を向けていると、更に奇妙なことに気が付いてしまった。
その『月』は、海の上に見えてはいるけれども、海原にその姿を映していないのだ。
月が海の上にて輝いているのならば、その姿を揺らめく海原へと映しているのが普通なんだと思う。
けれども、今、俺が目にしている『月』はそうではなかった。
虚ろなその光を、空にポッカリと空いたかのような環の中に湛えているばかりだった。
ゾクリとした冷たい感覚が、まるで電流のよう俺の背筋を駆け上がって行くように感じられた。
俺は思わずブルリと身体を震わせた。
震えに気が付いたのか、俺の両肩を掴んで激痛マッサージを施してくれている登也先輩が「ん?どうした?」と声を掛けてきた。
その声につられるようにして、俺は登也先輩に、その『月』のことをポロリと告げてみた。
「先輩、あの『月』って、何か変じゃありませんか?」と。
すると登也先輩は、何やら驚いたような口調で
「え?!どこ?どこに見える?」と聞き返してきた。
俺と登也先輩との会話が耳に入ったらしく、緋奈先輩も、「え?あれ?あれ?」などと驚いたような声をあげながら、空のあちこちへと視線を巡らしている。
俺は驚き、そしてこう思った。
あれ?
あの『月』が見えているのって、もしかして俺だけなの?と。
ゾクリとした冷たい感覚が、俺の背筋を再び駆け抜けて行った。
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