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俺たちの後ろにいた竺紫野琴羽が、緋奈先輩の隣へスタスタと歩み寄って来た。
そして、空の一点を指差し、淡々とした口調にて「ほら、あそこ」と言葉少なに緋奈先輩へと告げる。
竺紫野琴羽が指差したその先には、俺が見つけた『月』がぼんやりとした光を湛えていた。
緋奈先輩と登也先輩は、ほぼ同時に歓声を上げる。
「あ、あった!」は、緋奈先輩のはしゃぐような声。
「おぉぉ、見つけた!」は、登也先輩の雄叫びのような声。
緋奈先輩は俺の方を振り向き、その顔に笑みを浮かべながら「橘くん、凄いじゃん!」と、喜びに溢れた声で話し掛けてきた。
そして左目でウィンクをしながら、その右手を俺の方に突き出して親指をグイッと上げる。
一瞬だけど『月』のことを忘れ、可愛らしくて元気に満ちた緋奈先輩の仕草についつい見とれる俺。
登也先輩は「コトさんの見立て通りでしたね!」と、竺紫野琴羽に嬉しげな声を掛けていた。
緋奈先輩はもたれ掛かっていた手すりからその身を離し、登也先輩の傍へと駆け寄って来る。
登也先輩はようやく俺の両肩からその逞しい手を離し、緋奈先輩と何やら話し始める。
二人はどうやら、あの『月』のことを話しているようだ。
話の内容はよく分からないけど、何かの打ち合わせっぽい雰囲気だ。
俺の心に次から次へと疑問が浮かび上がってくる。
『月』を見つけて一体何の打ち合わせを始めてるんだよ、この人達って?
これから何を始めようって言うんだ、この人たちは?
そもそも、あの『月』は一体何なんだよ?と。
抱く疑問はともかく、やっとのことで登也先輩の無慈悲なマッサージから解き放たれた俺は、緋奈先輩と入れ替わるかのようにして手すりの方へと歩み寄る。
そして、同じく手すりに歩み寄っていた竺紫野琴羽と並ぶようにして、海の上にその姿を浮かべる『月』を見上げる。
その『月』は、俺が見つけた時よりも輝きを増しつつあるように思えてしまった。
俺が見つけた時にはあやふやだったその輪郭は、段々と明瞭になりつつあるようだった。
そして、不思議なことに、それに反比例するかのようにして、夜空を彩る星々の輝き、そして街の灯の醸す暖かさが衰え行くような印象もまた抱かされてしまった。
何とも言えぬ不安な気持ちが俺の心の中を占め始める。
その気持ちは、古文の授業中に見た、『灰色の夢』を思い起こさせるものだった。
「橘くん」と、呼び声が聞こえた。
竺紫野琴羽の声だ。
俺は彼女のほうへと顔を向ける。
竺紫野琴羽は『月』へとその視線を向けながら、淡々とした口調にて俺に話し掛けてきた。
「橘くん、やっぱり『禍月』を見ることができたね。」と。
俺は思わず聞き返す。
「『禍月』って言うの、あれ?」と。
竺紫野琴羽は何も言わずに頷いた。
その時、俺は何となくだけど理解した。
古文の時間に見た『灰色の夢』
あれは恐らく、この『禍月』に関係があるんだろうな、と。
そして気が付いた。
この場所に拉致られて来たことに対する憤慨めいた思いが俺の中から消え失せていることに。
『灰色の夢』に対する怖れにも似た気持ち、そして眼前に浮かぶ『禍月』への違和感。
あるいは、あの『灰色の夢』の中にて竺紫野琴羽の瞳を見たときに感じた寂しさ、懐かしさ、そして暖かさ。
それらは俺がつい先程まで抱いていた、彼女に対する憤慨めいた思いをすっかり消し去ってしまったんだと思う。
その竺紫野琴羽は視線をやや下ろし、そして俯いた。
まるで、何かを考え込んでいるかのように。
少しの沈黙の後、彼女は俺のほうへとその顔を向け、そして再び口を開いた。
その口調はどこか辛そうで、そして切なげな響きもまた纏っていた。
「橘くん、もう帰ってくれてもいいよ。
今日はいきなり付き合わせちゃってごめんなさい」
そして、申し訳無さそうにその頭を下げた。
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