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俺は自分の耳を疑った。
そして竺紫野琴羽へと問いを投げ掛ける。
「え?!
一体どうして?」
少しの間を置いてから、竺紫野琴羽は語り始める。
その目を伏せたままで、淡々とした抑揚の無い声で。
「今日は付き合わせちゃってごめんなさい。
橘くんにあの『禍月』が見えるかどうか、それがどうしても知りたくなっちゃって。
いきなりで悪いとは思ったけど、でも無理矢理誘ってしまったの。
ちょっと心配だったこともあるんだけど……。
でも、これ以上ここにいると大変なことになっちゃうから。
ごめんなさい」
俺の心を戸惑いが占め始める。
疑問が思わず口を突いて出る。
「誘ったのは別にいいよ、俺も断らずに付いて来たんだし。
でもさ……
色々と訳が分からないよ。
古文の授業でのこととか、あの『禍月』のこととか。
あの『禍月』って一体何なの?」と。
竺紫野琴羽は俯いたままで小さく溜息を吐いた。
少しの沈黙の後、彼女はその顔を上げ、『禍月』を見遣りながらポツリとこう口にした。
「午後の授業中、私と目が合った時、どう思った?
怖くなかった?」
それは、俺の問いとは全く関係の無い言葉だった。
でも、彼女のその言葉は、俺の心の中に様々な感情を蘇らせた。
あの夢の中にて彼女の瞳を見たときに心に浮かんだ様々な感情を。
寂しさであったり、強く揺るがぬ決意だったり、あるいはじんわりとした懐かしさだったり。
少の躊躇いの後、俺は答えた。
竺紫野琴羽の横顔を見詰めながら。
「驚いた。
でも、怖くはなかった。
そして……
何だか寂しくなった」と。
竺紫野琴羽はハッとしたかのように俺の方へとその顔を向ける。
その顔に驚いたような表情を浮かべながら。
感情を揺らがせた彼女の様を目にするのは始めてだった。
それを目の当たりにした俺の心の中には驚きが拡がって行く。
でも、俺はそれに構わず言葉を続けた。
「そして、思った。
灰色の世界の中でも、きっと大丈夫だって」
自分でも不思議だった。
何故、こんな言葉が自分の口を突いて出てくるのか訳が分からなかった。
でも、こうも思った。
あの『灰色の夢』の中にて彼女の瞳に救われたことは伝えなきゃならない、と。
俺は言葉を続ける。
「あの灰色の世界の中で、竺紫野さんは俺を見てくれた。
時間の止まった世界で、俺を見てくれた。
だから多分、俺はここにこうして居られるんだと思う」
竺紫野琴羽が息を呑む音が聞こえたような気がした。
彼女は手すりからその身体を離し、俺の方へと向き直った。
そして、彼女は俺に問い掛ける。
「どうするの?」
俺は戸惑う。
『どうするの?』とだけ聞かれても……、と。
一体何をどう答えていいのか、もう全く分からない。
そもそもだけど、一体何のためにこの場所に連れて来られたのか、俺はまるっきり分かっちゃいない。
結局のところ、これまで何の説明だって受けていない。
そして今、俺の心の中は混乱で溢れ返っている。
空に浮かぶ『禍月』なるものへの違和感だったり、周囲の景色から次第に彩りが失われつつあることへの怖れに似た気持ちだったり。
はたまた、この三人組に対する得体の知れない思いだったり。
湧き上がる様々な疑問、そしてこれまで味わったことなどない様々な気持ち。
それらは俺の心をひどく混乱させていた。
どう答えていいのか困惑する俺の心の中に、とある願いが浮かび上がった。
こんな願いって、絶対に場違いなんだろうと自分でも思う。
何でこんなことを望むのか自分でも訳が分からない。
色々と訳が分からなくなって、半ば自棄になっていたのかもしれない。
不安や混乱に苛まれる心が、午後の出来事を思い起こさせたのかも知れない。
でも、訳が分からないままでも、俺はその願いを口にしてみようと思った。
俺はその願いを言葉にした。
「もう一度、竺紫野さんの目を見たい。」
けれども、竺紫野琴羽にとって、その言葉は意外でも何でもないようだった。
彼女は小さく頷き、そして再び問い掛けてきた。
まるで念を押すかのように。
「本当に、いいのね?」
俺は、頷いた。
ぼんやりとこう思いながら。
多分だけど、これまでの日常に引き返せなくなるんだろうなと。
でも躊躇いは無かった。
俺を取り巻く世界がグラリを傾ぎ始める、そんな予感を抱きつつあった。
日常って、こんな感じに何の前触れも無く、呆気なく失われていくんだな。
午後の夢の中、あの灰色の静寂の中にて竺紫野琴羽の瞳に救われた俺はぼんやりとそう思っていた。
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