第三章 虚ろなかげと浄き闇

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竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)は俺のほうへと向き直り、そして俺を見詰める。 俺も彼女を見詰める。 そして、その瞳を見る。 あの『灰色の夢』の中と同じように。 眼鏡の奥に在る闇色の瞳、それが(ほとばし)らせる何物かが俺の心へと押し入ってくる。 あの『禍月(まがつき)』を目にした時から俺が抱き続けて来た違和感や不安感、それらが瞬く間に追い(はら)われていくように感じられた。 俺はようやく理解した。 この闇は、煌めく闇だ。 あの虚ろな月とは真逆な存在だ。 『禍月(まがつき)』の虚ろな光の下だからこそ、それを知ることができたんだと思った。 俺は思わず竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)へと語り掛ける。 知らず知らずのうちに、その言葉が俺の口から(ほとばし)り出ていた。 「眼鏡、取ってもらっていい?」 何物にも遮られない彼女の姿を見たい。 そう思った。 「え?! いいの? 本当にいいの?」 竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)のその声音は、いつもと変わらぬ淡々とした響きながらも、何処か驚きの色を含んでいるようだった。 そして、何処か哀しげだった。 けれども、嬉しさもまた混じっているようにも思えてしまった。 俺は頷き、そして答える。 「あの月は、嫌いだから。」 竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)は俺の言葉に小さく頷いた。 そして、やや俯き気味になって、その右手を眼鏡の(つる)にそっと添えた。 ごく僅かだけれども、その右手は震えているようだった。 彼女は眼鏡のレンズ越しにチラリと視線を投げ掛けてきた。 その顔は仄かに赤らんでいるようだったし、瞳は僅かに潤んでいるようだった。 罪悪感とも申し訳無さとも言い難い、後ろめたいような気持ちが俺の心の中にじんわりと湧き上がってくる。 でも、俺は竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)から目を逸らすことは出来なかった。 まるで釘付けにされたかのようにして俺が見詰める中、彼女はそっと眼鏡を外した。 一瞬だけど、俯いたままでその顔を上げるのを躊躇(ためら)ったように見えた。 その躊躇(ためら)いを振り捨てるかの如く、思い切ったかのようにしてその顔を上げる。 そして、俺を真っ直ぐに見詰める。 竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)の野暮ったい三つ編みは何時の間にか(ほど)けていた。 皐月(さつき)の夜風が彼女の長い髪を緩やかに揺らしていた。 まるで夜空の煌めきを封じ込めたかのようなその黒髪を。 艶やかなその髪は、光を失いつつある世界の中にあって、その一筋一筋が黒々とした輝きを放っているように俺の目には映った。 音すらも失われつつある世界の中にあって、夜風がその黒髪を揺らす様は、涼やかなで細やかな金属の音色を響かせているようにも感じられてしまった。 彼女のその輪郭は、色彩を失いつつある世界の中にあって、一際浮き上がっているかのようだった。 それまで彼女を覆っていた、その存在を曖昧に見せていた透明の膜のようなものが瞬時に消え失せたように思えた。 彼女が放つ存在そのものの光とでも言うべきもの、それが周囲を照らし出しているかのように感じられた。 俺は、彼女の目を見た。 切れ長で涼やかな二重瞼の目。 その中に輝く黒々とした瞳。 それは言うなれば『輝く闇』だった。 その瞳は、矛盾に満ちていた。 それは、光を飲み込む深い海のようだったし、天の河が煌めく夜空のようにも思われた。 細波すら立たない山奥の湖のようにも思えたし、荒れ狂う嵐の海を連想させるようでもあった。 そこに在るのは凍てつくような冷たさであり、じんわりと心を暖めるような温もりであり。 そして何よりも。 圧倒的な存在感と壮絶なまでの強烈な決意、 そして、どうしようもない寂しさ。 それらが俺の心の中に瞬時に入り込み、俺の心の中を占めつつあった。 竺紫野琴羽の瞳に心囚われながら俺は思った。 この瞳の理由を知りたい、と。 俺は竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)の瞳を見る目に力を込めた。 そして、頷いた。 僅かだけれども彼女は微笑んだ。 竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)の瞳は美しかった。 それは、残酷なまでに。 虚ろな光を湛えた『禍月(まがつき)』、それは酷く見窄(みすぼ)らしく思えてしまった。 彼女の瞳が湛える残酷なまでの美しさの前には。 それは自ら存在の光を放つ存在と、他者から奪った輝きで己を飾り立てる存在との絶望的までの差なんだと思った 竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)の瞳が(かも)す圧倒的な存在感の前には、『禍月』のその虚さは哀れでしかなかった。 俺の左手は、何時しか竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)の左手が携えているのと同じものを握り締めていた。 それは、俺の体の一部であるかのようにも感じられた。 ずっと前からそれを持ち続けていたような、ごく自然な感覚だった。 『禍月(まがつき)』はその輝きを強め、その輪郭を際立たせつつあった。 世界からは音と彩りが、そして熱が急速に失われつつあった。 けれども、俺は思った。 竺紫野(つくしの)琴羽(ことは)の瞳があれば、きっと大丈夫だ。 あの瞳が、あの『禍月(まがつき)』を否定するから。 『輝く闇』が、『虚ろな光』を消し去るから。 微塵も残さずに。 そう思った。 声が響いた。 『見つめてる、望む限り』 それは、まるで風の(ささや)きのように思えてしまった。 優しくて活き活きとして、そして緑を(まと)った微風が言葉を載せてふわりと吹き抜けて行った。 そんな気がした。
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