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第四章 弾む鳶色揺れる黒
それは日曜の昼過ぎのこと。
五月の空は抜けるように青くて、昼下がりの太陽は暖かな日射しを振り撒いていた。
そして、俺はいつものカフェ『 Wand Café』の窓際の席にて、幼馴染みの織殿聡美と向かい合いに座っていた。
半年ほど前にオープンしたこの『 Wand Café』は、黒と白を基調とした品の良い内装にお手頃な価格ながらもお洒落な料理にスイーツ、そして女性スタッフ達が身に纏うメイド服を思わせるような制服が人気なためか、休日のお昼時ともなれば結構な賑わいを見せていた。
一昨日の金曜の放課後、俺は聡美と一緒に書店へ行く約束をしていた。
けれども、急な用事のせいで、その約束をドタキャンする羽目となってしまった。
ドタキャンの埋め合わせってことで、この『 Wand Café』にてランチ、そしてケーキとを奢らされている最中なのだ。
元凶となったあの「急な用事」のことなんて、できれば忘れてしまいたいくらいだ・・・。
「これ、美味しいね!」と言いながら、満足げにシフォンケーキを頬張る聡美。
ぱっちりした二重瞼の中の鳶色の瞳は嬉しさで輝いているようにも見えた。
肩に掛かるくらいのやや茶を帯びた髪の毛は弾むようなその声と共に軽やかに揺れている。
書店にいた時はブツブツと文句を言っていたのが、まるで噓のような上機嫌ぶりだ。
俺の目の前には半分ほど平らげられたベイクドチーズケーキがあるんだけれども、嬉しげなオーラを放っている聡美の様を見ていると、俺もシフォンケーキにしておけば良かったなと思わさせられてしまう。
いかにもフンワリとした、そして紅茶の香りも芳しそうなシフォンケーキの生地が聡美の口へと運ばれて行く様を、俺は知らず知らずのうちに見詰めてしまっていた。
俺の視線がシフォンケーキへと注がれていることに、そして、それが羨みを含んだものであることに気が付いたのか、聡美はニヤッと悪戯っぽい笑みをその顔に浮かべ、勝ち誇ったかのようにこう宣告する。
「あれ、尚くんもシフォンケーキ欲しいんだ?
でも、分けてあげないからね~」
『橘尚政』というのが俺のちゃんとした名前で、『尚くん』というのは聡美が俺を呼ぶときのあだ名というか略称みたいなもんだ。
『尚くん』はさておき、俺の内心を見抜いたかのような聡美の言葉にギョッとした俺は、思わずこう口走っていた。
「いや、そんなんじゃないって!
俺のだって美味しいよ。
ホラ!」
そして、如何にも美味しそうな素振りを見せながら、残りのベイクドチーズケーキを一息に頬張る。
仄かにレモンの風味を含んだ湿り気のある生地が口の中でホコホコと砕けていく。
これはこれでしっとりと美味しい。
聡美はフォークをお皿の上に置き、組んだ両の掌の上に顎を乗せて、モゴモゴと口を動かす俺の様をじっと眺めている。
その目を細め、その口元には悪戯っぽい笑みを浮かべながら。
俺がケーキを飲み下したのを見計らって、聡美はこう口にする。
「尚くんってさ、ホンットに分かり易いよね。
まず最初に反論したときメッチャ早口だったじゃん。
それって慌ててる証拠だよね。
それからさ、その時って目がすっごく泳いでた。
いかにも何か誤魔化そうとしてるって感じだよね」
俺は思わず黙り込んでしまう。
心の中にてこう呟く。
おのれ、聡美め!
何もかも見透かしやがって、と。
とは言え、見透かされっ放し、そして言われっぱなしというのも何だか悔しい。
なので、更なる反論を試みることにする。
このままだと俺は聡美のシフォンケーキを虎視眈々と狙っていた食いしん坊で終わってしまう。
「いや、このベイクドチーズケーキ美味しかったんだって!
チーズのコッテリ感とレモンのサッパリ感がちょうど良かったし生地もサックリな食感で楽しかったんだって!
聡美のシフォンケーキなんて別に羨ましくないって!
ホントだって!!!」
身振り手振りを混じえた俺の反論を、聡美はさも楽しげに、ニコニコしながら聞いていた。
そして、俺が反論を終えると「ふぅ~」と長めの溜息を吐く。
俺はついつい身構えてしまう。
そんな俺が視線を注ぐ中、聡美はおもむろに小さく「えへん!」と咳払いをする。
そして、淡々と語り始める。
「だからさ~、尚くん、分かり易過ぎるんだって。
今だってやたらと早口だったし、それに手とかメッチャ回してるし」
「いや、これはその」
「ほら、今だって左手で自分の口元隠してるし。
それってね、自分の表情を見られたくないってことなんだよ」
「いや、これはアニメで出てくる司令官のマネであって」
「そうやってさ、両手を組んで口元隠しちゃっても余計怪しいって。
それにさ、その仕草って尚くんに似合わないって!
それって大人の渋さが無いと怪しいだけだよ」
「え?!
聡美って渋い大人が好みなの?!」
「はいはい、そ~やって話題をずらさないで下さい!
もう認めようよ、素直にさ。
私のシフォンケーキを狙ってたってさ」
まるで有罪判決を下すみたいにそう述べた聡美は、傍らのバックの中から一冊の文庫本を取り出し、その表紙を俺に見せる。
『しぐさの心理学』とその表紙には書かれていた。
聡美は自慢げにこう口にする。
「最近この本買って読んでるんだけど、まさに今の尚くんのことをバッチリ書いてるって感じでさ。
急に早口になるとか、突然ジェスチャーが多くなるとか、あとは口元を隠すとか。
それって自分のホンネを見抜かれたくない人が取る典型的な行動なんだって」
そう告げた聡美は、俺に向けてニッコリと微笑みかけた。
まさに勝利の笑みと言わんばかりに。
それは小さな頃から変わることのない、無邪気な微笑みだった。
シフォンケーキへの興味を見抜かれ、何となくバツの悪い思いを抱いた俺は、これ以上言い訳するのを断念することにする。
言葉も途切れ観念した様子の俺を見た聡美は、満足したかのような雰囲気を漂わせながら、再びシフォンケーキを頬張り始める。
まぁ…、こういったやり取りはいつものことなんだ。
そして、それは昔からなんだ。
だから、今更怒る気なんて起きないし、落ち込むような気持ちなど別に湧いても来ない。
何か気持ちが湧き上がって来るとしたら、それは、普段の日常に戻ってきたというシミジミとした感慨くらいなもんだ。
聡美は相変わらず喜びのオーラを発散させながらシフォンケーキを味わっている。
彼女のそんな様を見ていると、俺の心の中にしっとりとした安らぎ、そしてじんわりとした嬉しさが湧き上がってくるような思いだった。
はぁ…、何とも落ち着く一時だ。
ようやくいつもの日常に戻って来れたような心持ちだった。
奢らされたことはちょっと痛かったけど。
大きな窓から差し込む柔らかな初夏の陽光、店内に響く静かなざわめき、そして、鼻孔を擽る芳しいコーヒーの香り。
そんな穏やかな店内の雰囲気が、俺をしみじみと回想へ誘って行く。
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