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第一章 揺蕩う波間に揺れるかげ
夕暮れの空をじっくりと見上げるなんて随分と久しぶりだなと思った。
寂しさを含んだような茜の色合いが次第次第に濃紺へと置き換わっていくその様はどこか切なくて、そして何とは無しに落ち着かない気持ちを抱かさせられるようだった。
つい先程までは茜にその身を染めていた筋雲、それは夜の色に染まりつつある空を背にした今となっては、青みがかったその白さを浮き立たせつつあるように目へと映った。
少し冷たくて、そしてやや湿り気を含んだ空気が俺たちをじんわりと包み込んでいく。
夜がゆっくりと押し寄せつつある、そんなふうに思った。
夕陽が沈みつつある中をこの市立病院の屋上へとやって来てからもう三十分くらいが過ぎただろうか。
五月も上旬、皐月に入ったばかりのいわゆる立夏の候だけれども、潮気を含む夜風はことのほか冷ややかだった。
その夜風に身体を吹かれていたためか、思いのほか底冷えてきたようだった。
「クシュン」というクシャミの音が立て続けに響き渡る。
可愛らしく艶のあるクシャミと、やや野太くて力強さを感じさせるような二つのクシャミ。
そのクシャミの主は、日向野登也先輩と、その双子の妹の緋奈先輩のようだった
「どうしたの、トウヤ、ヒナ?」
驚きの響きを含んだ、そして仄かな暖かさも湛えた声がクシャミをした二人へと投げ掛けられる。
それは俺のクラスメイトである竺紫野琴羽の声だった。
その声音は何時になく柔らかだったけど、二人のほうへと振り向けたその顔に浮ぶ表情は、いつもの分厚い黒縁メガネのせいか良く分からなかった。
取り付く島などまさに皆無と言わんばかりの普段の素っ気無い様が思い返される。
この人ってこんな暖かみのある声で話すこともあるんだ、との意外な思いを抱きつつも、俺は内心にて憤慨混じりの突っ込みを入れる。
この人、何で先輩達に対してタメ口なんだよ!しかも下の名前で?と。
けれども、そんな俺の憤慨は、愛らしくて艶めいた緋奈先輩の声にて立ち所に掻き消された。
「大丈夫ですよ、コトさん。
意外と冷え込んじゃいますね~。」
クシャミをした後のためか、やや鼻声がかったその声は、可愛らしさもまた漂わせているように思えてしまった。
何とも言えぬ微妙な気持ちを抱きつつ、俺は街のほうへと視線を向ける。
有無を言う暇も無いままにこんな場所に、まるで拉致られるようにして連れて来られたのは釈然としない。
出来ることなら今すぐにでも帰りたい。
でも、この緋奈先輩の頼みとあってはなぁ……。
視界の果ての海原には、そこに浮かぶ船の灯りがゆらゆらと揺らめいていた。
その有様は、俺が心に抱える戸惑いを映しているかのようにも思えてしまった。
夜風が柔らかに吹き抜ける。
それは、仄かに緑の薫りを帯びていた。
そして、涼やかな音色もまた載せているようにも感じられた。
例えるならば、凜とした風鈴の音のような。
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