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街を彩る数多の灯火は、夜の気配が増す程にその輝きを際立たせつつあるようだった。
街外れの港に浮かぶ船は、その姿のそこかしこに眩い灯りを輝かせている。
その彼方に見える凪の海原は、夜空に瞬き始めた星々の煌めきを柔らかに受け止めているかのようだった。
俺たちは街の真ん中あたりに一際高くそびえ立つ市立病院の屋上から、夜に包まれ始めたこの街を眺めている。
俺たち、というのは、今しがたクシャミをした日向野登也先輩と、その双子の妹である緋奈先輩、そして、俺のクラスメイトである竺紫野琴羽に、この俺を合わせた四人のことだ。
もっとも、俺の心境としては、『竺紫野一味』三名様と、いつの間にかそんな三人に巻き込まれた哀れな俺、といったところだったけど。
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それは、部活を終えて校門を出た時のことだった。
俺は水泳部に属してはいるけど、それほど熱心に練習へと打ち込んでいるという訳でもない。
一応は部活に入っているという体を取っているといったところだ。
俺が通う北野東高校、略して東高は地域の進学校ということになってはいる。
とは言え、一年や二年の頃から脇目も振らずに勉強に打ち込んでいるのは特進クラスに属してる、いわゆる「エリート」くらいなもので、通常のクラスの普通な生徒達はその半分程度が何らかの部活動に属している。
でも、進学校としてはやはり勉強がメインであるので、本気で頑張ってるといった雰囲気の部活は少数派のようだ。
俺の属する水泳部とて結構ユルい雰囲気だったりする。
毎日熱心に練習をしている部員なんて恐らくは半分にも満たないし、残りの半分の部員たちは週に2、3回でも顔を出せばいいほうなんだと思う。
もちろん、この俺だって後者の顔ぶれだったりする。
今日だって、別に早々と帰宅しても良かったんだけど、俺と同様に幽霊部員にならない程度に顔を出してるような同学年の部員たちと共にランニングや筋トレを一通りこなしていた。
東高のプールは屋内とか、あるいは温水などといった恵まれたものではないので、秋から夏の始まりにかけては市民公園の室内プールで練習するか、あるいはランニングや筋トレなどの基礎トレーニングに励むってことになる。
俺は放課後に約束を控えていたから、それまでの時間潰しといった感じに緩めのトレーニングをこなしていた。
六時過ぎに校門近くのコンビニ前で待ち合わせるという約束だったから、程々の時間に部活を切上げた俺は、その10分くらい前には校門を出たんだと思う。
夕陽はだいぶ西へと傾き、どこか物悲しさを感じさせるような茜の色合いが空を満たしつつあった。
昼間の暑さを仄かに孕んだ微風が緩やかに吹き抜けていた。
約束の時間にはまだ少し早いから、コンビニに着いたら雑誌を立ち読みでもしようかと考えつつ校門を歩み出た俺は、つんのめりそうな勢いで立ち止まさせられた。
俺の目の前に、忽然と人影が立ちはだかったのだ。
いや、おそらくは俺が校門を出ようとした時、人影は既にその場所に在ったんだろう。
けれども、漂わせる気配がとにかく薄くて、そして俺は考え事をしつつボンヤリと歩いてたから、その目前になるまで気が付かなかったんだと思う。
その人影は竺紫野琴羽、俺のクラスメイトだった。
彼女とは入学した時に同じクラスになり、そして隣同士の席になったんだけど、マトモに会話を交したのって実は今日の午後が始めてだった。
その会話の内容にしてみたって、クラスメイトと普段交すような他愛の無い雑談とは随分と懸け離れたものだったけど。
俺の目の前に立ち塞がる彼女は、普段と変らぬ黒縁のメガネを掛けていた。
分厚いレンズが茜の陽射しを反射していたためか、その顔に浮かぶ表情は全く読み取ることができなかった。
俺は戸惑いを抱きながら、そんな彼女の顔に視線を注ぐ。
その彼女は、困惑気味の俺へと向けてポツリと言葉を零した。
「さっきの約束」と。
抑揚に欠ける竺紫野琴羽の声が、俺の耳へ淡々と響き入ってくる。
その言葉は、午後に起きたあの出来事を嫌が応にも思い出させるものだった。
忘れようと思っていた、あるいは夢の中の出来事だと思い込もうとしていた、訳の分からないあの出来事を。
そして、その後に交した竺紫野琴羽との会話とを。
確かに今日の午後、目の前の彼女と約束めいた会話を交した覚えはある。
けれども、でもさ……。
俺って、これから約束があるんだけど……。
困惑、そして申し訳無い気持ちとに苛まれつつも、何とか穏便に断る口実を捻り出そうと俺は考えを巡らせ始める。
どうしよう?何て言おう?また明日にでもしてくれって頼もうか?
夕陽に照らし出された竺紫野琴羽の顔からは、相変わらず何の感情も感じられない。
黒縁眼鏡の分厚いレンズは相も変わらず茜の陽射しを反射している。
そのためか、有無を言わさぬ圧を醸し出しているようにも思えてしまった。
そんな彼女の雰囲気に接していると、俺はズルズルと彼女の申し出を受け入れようと思い始めてしまっていた。
揺らぎ始めた心を、俺は内心にて叱り飛ばす。
いや、ここで負けちゃ駄目だ!
ここで約束をドタキャンでもしたら、後で何かと面倒なことになってしまうんだよ!、と。
約束の相手が浮かべるであろうムスッとした表情を思い浮かべつつ、俺は考えを巡らせて打開策を模索しようとする。
けれども、俺のそんな思考は、背後からの呼び声によってブッツリと中断させられてしまった。
「コトさんお待たせ~!
あれれ、もしかして!
彼が、あの噂の橘くんですか!?」
そう、俺の名前は橘尚政。
戦国武将みたいな名前だとよく言われる。
由来について詳しい話を聞いたことはないんだけれども、俺の父親は歴史、特に戦国時代あたりが好きみたいだ。
名前はさておき、俺の思考が断ち切られてしまったのは、その声の主は東高ではあまりにも有名で、そしてある意味で俺の憧れの人物だったからだ。
俺は弾かれるようにして、声が響いてきた方向へと振り返る。
振り返った俺が目にしたのは、この東高随一の美人と断言するほか無い日向野緋奈先輩が、その顔に嬉しげな表情を浮かべつつ駆けよって来る様だった。
そして、その緋奈先輩と並んで俺に駆け寄りつつあったのは、これまた東高随一の快男児としか言いようのない日向野登也先輩だったのだ。
え、一体どういうこと?!
何で俺が緋奈先輩から「噂の橘くん」なんて呼ばれてるの?!
意外過ぎる展開に狼狽えた俺は、竺紫野琴羽のほうへと振り返る。
夕陽に照らし出された彼女の表情は相変わらず判然としなかった。
でも、そのメガネの下にて彼女の顔が「ニヤリ」と笑った、ような気がした。
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