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「橘く~ん、今日はありがとね~」
俺の思考は緋奈先輩の可愛らしくも艶っぽく、そして悪戯っぽさも含んだ声にて遮られた。
俺は思わず狼狽え、そして「い、いえ。特に用事とか約束とかありませんでしたからっ!」と、口籠もりつつ言葉を返す。
いや……
実のところは用事も、そして約束もあったんだ。
今日の放課後の約束とは、部活が終わったら幼馴染みの織殿聡美が書店に行くのに付き合うというものだったんだ。
けれども、校門を出たところでこの三人組に取り囲まれて、そして、あの有名な緋奈先輩が困ったような微笑みをその顔に浮かべながら、
「お願いっ、コトさんが君にも一緒に来て欲しいって言うから、ちょっと市立病院まで付き合ってくれないかな?」なんて頼み込んで来たら、東高の男子生徒として、それを断る選択肢なんて存在する訳など無いんだ。
憧れの『東高の大天使』と親しくお話ができる、まさしく千載一遇のチャンスな訳だ。
せっかく緋奈先輩からお願い事をされたのに、それを無下に断るなんて勿体ないことをしようものなら、もう天罰が下っても不思議じゃないんだろう。
天罰はさておき、俺が緋奈先輩からのお願い事をつれなく断ってしまったなんて噂が広まろうものなら、東高内にて暗躍する秘密結社のような『緋奈先輩親衛隊』からどんな仕打ちを受けるか分かったものじゃない。
実際、俺がこの3人に囲まれている様を目にした通りすがりの生徒達は、遠巻きに様子を見守りながらヒソヒソと話を交したりもしていた。
俺が緋奈先輩のお願いを断ってしまい、そして彼女が落胆した様でも見せようものなら、その噂は明日のうちに東校中へと広まっているに違いない。
そうなると……
明日からは俺のこの身が危ないかもしれない。
俺はそう自分に言い聞かせて、「ごめんっ、聡美!」と心の中で叫びながら、「急な用事が出来た、ゴメン!また週末にでも」といったメッセージを彼女へと送り、『竺紫野一味』と一緒にこの市立病院へとやって来たのだ。
けれども、お見舞いか何かと思っていたのに、いざ市立病院に辿り着いてみたら全く違った訳だ。
何故か屋上に連れて来られ、そして30分ほど一緒に街を見下ろしている訳だ。
どうして、この市立病院の屋上に居座っているのかについての説明をされる訳でも無く。
何かもう、完全に欺れた気分だ。
とは言え…。
あの緋奈先輩と同じ場にいるという事実は、そんな憤慨めいた気持ちを鎮めてくれるようだ。
手すりにその体をもたれ掛けさせた緋奈先輩は、俺のほうを振り返りながら言葉を続ける。
誰もが一瞬で恋に落ちてしまいそうな柔らかな微笑みを、その可愛らしくも大人っぽい顔へと浮かべながら。
「コトさんがね、今夜はどーしても橘くんに来て貰わなきゃ困るって言って聞かなくってさ。
ごめんね~、いきなりでビックリしたでしょ?」
俺はまたしても狼狽える。
『いやぁ、緋奈先輩とこうしてお話できるだけでも一緒に来る価値ありましたよ!』
なんて気の利いた台詞でも返すことが出来ればいいんだろうけど、そんな浮ついたことなんて言える訳が無い。
何せ俺の背後には、あの登也先輩が控えているのだ。
緋奈先輩とは恋人同士とも、あるいは許嫁同士と噂されている筋骨隆々な登也先輩が。
そんな登也先輩の前にて下手なことを口走ろうものなら、もう何をされるか分かったもんじゃない。
逞しい筋肉の塊が、まさに雪崩を打つようにして俺へと襲いかかってくるに違い無いんだ。
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