アトリ 水底のリトルバード

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アトリ 水底のリトルバード

 おばあちゃんのところに来て、今日で一週間。  夏休みが始まってすぐに、一人でここへやってきたわたしにおばあちゃんはなにも聞かず家においてくれて、おいしいご飯を毎日食べさせてくれる。  一人でぼうっとしていると、学校の、クラスの景色がふっと頭に浮かんできてしまう事があって、そんな時は頭をふってそれを頭の外に追い出そうとする。ここは学校じゃないって自分に言い聞かせて、浅くなった息と胸のどきどきをぎゅっとおさえる。胸と息が落ち着いても、体のどこかに重い灰色が残っているような、そんな気がしていた。  でも、おばあちゃんのごはんは本当においしくて、それはわたしの中の灰色に、あたたかい色が少しずつ注がれていくみたいだった。  わたしの家から遠くはなれたこの小さな港町で、一人で住むおばあちゃんは、ウソみたいに元気で若々しい。 「新鮮な海の幸を毎日いただくことが、元気の秘訣なんだ。アトリも毎日ここのお魚を食べてればすぐに元気になるさ」  昨日の夜、ごはんを食べながら話をしていた時だ。 「そうだ明日はアトリも朝市に一緒にいってみるかい」  子供がなにかとっておきのいたずらを思いついた、そんな顔で笑ったおばあちゃんに、わたしはうなずいていた。  朝市と聞いて、変に緊張して特別に早く寝過ぎたせいか、今朝はとんでもなく早い時間に起きてしまった。二度寝をしたら絶対寝過ごす自信があったから、朝の散歩に出かけたんだ。  そうしたら、あの子に会った。  歳の近い子と話すなんてずいぶん久しぶりだったのに、自然に声を出して笑えている自分に驚いた。 「ハーフパイプかあ」  スケートシューズを大事そうに持って、一生懸命で、どこか自慢げなあの子の顔を思いだした。  あの子も、おばあちゃんと同じようにここのお魚を毎日食べてるのかな。どことなく、同じような雰囲気を感じたんだ。全然似てもいないのに不思議。  六時もすぎる頃には、八月の太陽はすっかり明るく輝いて、じりじりとした暑さをのぞかせようとしていた。セミも盛大に大合唱を始めている。  漁港には多くの人が集まって、蝉の声に負けないくらい、売り買いの声を響かせていた。  船着き場の前に、テーブルが置かれ、発泡スチロールの箱やかごが並んでいて、その中には大量の氷と、魚やらイカやらカニやら貝やらがたくさん入っている。中にはまだ生きているものもいたし、みたことないような、とんでもなく大きい魚もいた。  丸のままの魚が並ぶ様子は、海も山もない、コンクリートに囲まれた町で生まれ育ったわたしにとっては新鮮だった。 「朝市は、十時ごろにはもうみんな店じまいしてしまうからね。気になるのがあったら言うんだよ」  おばあちゃんが一通りの品ぞろえを確認しながら言った。 「気になるっていっても、わかんないよ」  わたしはこんなに魚に囲まれたことなんてないんだから。 「ここにあるのはどれも美味しいから大丈夫。なに食べたってアトリの元気になるさ。おばあちゃんはどんな魚だって料理できるからね」  おばあちゃんは自分の二の腕をパンパンとたたいて、笑った。  どれでも食べたいものを選べと言われても、その丸のままの見た目はあまりにも料理から離れすぎていて、うまくイメージできない。  たとえばこの鯛一匹千五百円。鯛は知っているから料理もなんとなくわかるけれど、一匹千五百円というのは安いのか高いのか、いやきっとすごく安いんだろけど、おばあちゃんと二人でこれは大きすぎるんじゃないか、ちょっと持てるような大きさじゃない。  となりを見るとこれも丸太みたいな鰹が一匹二千円、イカ一箱千五百円と並ぶ。知ってる魚でこれだから、それじゃ食べたことのない魚はどうかといえば、つぶれた平べったいナマズのおばけみたいなのとか、それこそ選択肢は数限りない。  ここはもう、貝とかカニとかがいいのでは、と思ってザルの並んだ場所をのぞいた。 「一盛り五百円でいいよー!」  店のおばさんが元気よく声を出していた。  その、大きな目をした魚が五匹のったザルは、どんどん売れていく。  わたしは近づいてザルに盛られた魚をのぞき込んだ、体の横に、とじた扇子のようなひれがついている。 「ああ、トビウオだね。ほら、これで飛ぶんだ」  おばあちゃんがそのひれを摘んで持ち上げた。びろろんと羽がひろがった。縁がギザギザしていて、もみじの葉っぱみたいにも見える。 「トビウオ……」 「この町はトビウオの町だからね、トビウオはみんな好きだし、特別なのさ。今日はうちもトビウオにしよう」 「まいど!」  店のおばさんは、ザルの中身をがさっと無造作に、ビニール袋につっこんで渡してくれた。 「どうしてトビウオは飛ぶのかな? 楽しいのかな」  トビウオ料理が並んだ食卓を、おばあちゃんと二人で囲む。おばあちゃんの作ったトビウオ料理は、からあげもお刺身も、どれもとても美味しい。 「楽しくなんてないんじゃないかね? ありゃ逃げてるんだから」 「逃げてる?」 「そうさ、トビウオは鰯なんかと同じで、いつも他の大きな魚に食べられているんだ。だから大きな魚に追いかけられると、飛んで逃げるんだっていうよ」  ぴょんぴょんとイルカが跳ねるのと同じだと思っていたから、ばあちゃんのその答えは意外だった。 「そっか、なんかかわいそう」  自分を食べてしまう大きい魚から逃げる為に、息も吸えないような空に飛び出していく。  水の中でしか生きていけないのに、そこにしか居場所がないのに、その場所を追われてしまうなんて。  どこか、自分と重なるような気がして、トビウオがひどく悲しい生き物に思えた。 「でも、飛べる魚なんてトビウオだけだしねえ、飛んでいる間は案外気持ちいいのかもしれないよ。ほかの魚じゃ見れない、違う景色を見てさ。ずいぶん長く飛ぶのもいるからねえ。飛んでいるトビウオを見ると嬉しくなるんだ。この町はトビウオ漁の町だからね、あたしだけじゃない。みんなトビウオが好きなんだ。トビウオの飛ぶ姿に誇りを持ってるくらいさ」  誇り、か。なんだかわたしから一番遠い言葉。 「アトリにもトビウオの飛んでいるところ、見せてやりたいねえ」  この町の人が誇りに思うくらいの飛びっぷりって、どんなだろう。確かに見てみたいな、と思う。  と、ふと、似たような話をどこかでしたような気がした。 「あ、そっか。朝のハーフパイプの子だ」  あの子も、飛ぶところを見せてくれると言っていた。空を飛べないはずの人間が空を飛ぶ。それはどこかトビウオにも似ている気がする。  あの子が、ハーフパイプという水面を突き破って空を飛ぶ姿は、きっとばあちゃんが言うように、見ているだけできっと嬉しくなる。 「わたし、明日も早起きして散歩してくるね」  あの子に会いに行こう。あの子が飛ぶのを見たら、わたしも何か変われるかもしれない。
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