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アトリ 見上げる遠い空
わたしがスケートパークについたのは、昨日と同じくらいの時間だった。
でも今日は、昨日と違って奥のほうからゴロンゴロンと音が聞こえてきた。きっとあの子がもう滑っているんだ。
誰もいないスケートパークの真ん中をつっきって、一番奥へ早足で近づいた。ハーフパイプの中が見える場所にまで来たら、あの子がその中を行ったりきたりしているのが見えた。
空を飛んではいないけれど、ハーフパイプの上のほう、崖みたいに垂直になっているところまで、ぐーんとあがってはおりていく。その動きだけでも結構な高さがあって、ちょっと驚いた。
だいぶ近づいても、男の子はわたしに気がつかず、思い詰めたような真剣な顔をしていったりきたりをくりかえしている。
すると、体が一番高いところにさしかかったところで、男の子の体が横に向かってくるん、と回った。
「わっ!」
あぶないっ!
びっくりして、声が出てしまった。
男の子は回った時の姿勢のまま、ハーフパイプの壁にあたって滑り落ちてきた。息を切らせながら四つん這いのままで、なにかブツブツいいながら、ハーフパイプの底で床をみつめて動かなかった。
「お、おはよう」
なんだか声をかけにくい様子だったけれど、早朝の二人だけの空気の中だからか、不思議と声が口からでていた。
「おわっ!」
男の子はあからさまに驚いたようすで、びくっと首をすくめて尻餅をついた。
「あ、昨日の! お、おはよう。い、いつからいたの?」
「ちょっと前。行ったりきたりして、くるってなったところくらい」
「そ、そっか、全然気がつかなかったからびっくりした」
男の子は立ち上がるとハーフパイプから降りてきて、その舞台のように少し高くなっている縁に腰掛けると、なにか考え事しているみたいに、少しうつむいて組んだ両手を額に当てた。
わたしは向かい合うように、前にあるベンチに腰掛けた。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだけど」
なにやらむずかし顔をしているから、こわごわと声をかけてみる。男の子は顔をあげて、ヘルメットを脱ぐと水筒に手を伸ばした。
「い、いや! ほんとにすぐ会えるとは思わなかったから、じゃ、じゃなくって! あの、ごぼっ」
口にした水がどこか変なところにでも入ったのか、言葉の途中でせき込んでしまった。
「だいじょうぶ?」
「ごほっだ、だいじょう、ごほっぶ。ちょ、ちょうど休憩しようかなと思ってたところだったんだ」
「そうなんだ。わたしもびっくりした、くるってまわったの、あれって」
「ああ、フラットスピンっていう技なんだけど」
「へえースピンっ? 技なんだ! すごいね!」
男の子は一瞬だけぱあっと目が明るくなったけれど、すぐにまたうつむいてしまった。
「いや、失敗だし。着地できなきゃ意味ないんだ」
「そうなんだ。難しいんだね」
「うん。春まではうまくできてたんだけど、最近できなくなって。これできないと、勝てないんだ……。今日は気合いを入れてきたんだけどさ」
なんだか暗い雰囲気。とても空を飛ぶところがみたいなんて言いにくい。
「でもスイスイ滑って上のほうまでいって、すごいよね。でっかいブランコみたい。見てるだけでなんかわくわくする」
昔のアニメで、アルプスの山々をバックにとてつもなく大きなブランコをこぐ女の子がいたけど、まるであのブランコをリアルに再現しているみたい。正直、空を飛んでいなくても、上のほうまで滑っているだけで、すごいと思った。
「やっぱり走るだけでも難しいんでしょ? 上のほうなんて壁が完全に縦になってるし」
「え? いや、あれくらいならそんなに難しくないよ。基本だし。練習すれば誰でもできるよ」
「え? そうなの? 誰でも?」
「う、うん。確かにブランコのたちこぎに似てるかも。だからブランコできる人なら、練習すれば、たぶん。最初は怖いかもだけど」
誰でも?
男の子の言葉で、思ってもみなかった事が胸にわきあがる。
それって、わたしでも?
そう口に出そうとした時、学校のクラスの子達の顔が頭に浮かんで、その言葉はのどの途中で詰まった。
わたしが一人で教室に入った時に向けられる、あのいやな笑い顔。「縄跳びも飛べないのに、こんなことできるわけないよねえ」ちょっと離れたところから、わざとわたしに聞こえるように話す、そんな声までも聞こえてくる気がした。
ああ。やっぱりわたしには水の底がお似合いだ。水面に近づくことなんて一生できやしない。ゆるされない。
一瞬すごく近くに感じた、ハーフパイプのまっすぐに切り立った壁と、その先の空がものすごく遠くに見えた。
「だ、だいじょうぶ、か?」
気がついたら、しばらく黙り込んでしまっていたようで、男の子がわたしの顔をのぞき込んでいた。
「あ! ごめんごめん、ちょっとやなこと、おもいだしちゃって」
「やなこと? あ、オレ、なんか暗かった? もしかしてそれで」
「え! そんなことないない。違うの。わたしの事で」
心配そうな顔をする男の子に、あわててブンブンと手を振った。
「そう、なの? ならいいんだけどさ。なんかオレも全然うまくいかなくて、まいってて」
男の子は、ヘルメットをかぶりなおして背中を向けると、ハーフパイプの中へまた入っていった。
「で、でも、笑ってるほうがいいと、お、おもう。オレもそういう顔、みたいっていうか、そのほうがやる気でるっていうか」
何かごにょごにょと口の中でしゃべると、その言葉を振り払うみたいに、ハーフパイプの底で数歩駆けて勢いをつけると、ブランコみたいにグン、グンと高さをあげていく。
「これさあ、このブランコみたいな動き、フェイキーっていうんだ。ハーフパイプの基本の基本なんだけど」
走りながら、今度は大きな声で話しかけてくる。
「も、もし。もしだけどさ。興味あるなら、やってみたら? オ、オレ、これくらいなら教えるし……」
そう言って、また一番高い位置でクルッとまわって、着地できずに体で曲面を滑り落ちてきた。
「あーまた失敗。距離がとれてない。入りが早い。リズムを大事に」
ハーフパイプの底で四つん這いで下を向いたまま、ブツブツと独り言をつぶやいている。なんとかスピンっていう技のイメージを確認してるのかもしれない。
でも、その聞こえるようで聞こえないつぶやきの最後のほうだけは、なんとなく聞こえた。
「わ、笑ってるほうが、いいと思うんだ」
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