プロローグ

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プロローグ

 あの真夜中のプールサイドでぼくは、飛び蹴りをしてやりたかったんだ。 一人をいたぶって笑う最低な奴らの背中に、ぼくの靴の痕がくっきりついて、そのまま前のめりに倒れこむ。 そんな光景を、本当は。 「馬鹿、(みちる)!」  けれど、ぼくの目に飛び込んできたのは、顔を歪めて苦しそうに叫ぶ、(うみ)の顔だった。    母親同士が仲が良くて、家が隣で、幼稚園児の頃からずっと一緒にいる存在のことを、“幼馴染”というのなら、ぼくと海はまさしくそれにあてはまる。前に一度、相手が男じゃなくて、可愛い女の子だったらなあ、なんて言ったら、海はむすっとした顔で「それはこっちの台詞だ、バカ、アホ」と言った。  そんな海が、死んだ。  ぼくのせいだ。 「あんたのせいよっ!」  ハッとした。  その女の子は、殺してやる、とでもいうような、それはもうものすごい形相で僕のことを睨んでいた。つい数秒前までざわざわと騒がしかった教室が、しん、と静まり返っている。  この子、誰だっけ。  動揺しながら、考える。気の強そうな、ショートヘアの女の子。そうだ、海の彼女だ。でも、名前が思い出せない。 「海はあんたを助けようとしてあそこに駆け付けたのに、あんたは海を見捨てたのよ!」  わあっ! と大きな声で泣き喚いて、両手で顔を覆ってしまう女の子。思い出した、須賀さんだ。隣のクラスで、バレー部の。 「彩音、落ち着ついて」 「あたしは絶対許さないんだから! あんたさえ……あんたさえいなければ海は!」  ドラマの一場面を見ているような気分だった。須賀さんは、その後も大きな声で喚き散らした後、友達に引きずられて自分のクラスへ戻っていった。ぼくのもとには、騒がしさの余韻だけが残った。  海、お前本当にあの子と付き合っていたのか?  お前が一番苦手そうなタイプじゃないか。  海が死んでから、二週間の時が経った今日、ぼくは学校へ久しぶりに顔を出した。 心底気が重く、教室の扉を開く指先は情けなく震えた。そんなぼくのことを、クラスの皆は犯罪者でも見るような目で見てきた。そんな風に見られて当然のことを、ぼくはしたのだ。だから、じっと黙って、そういう視線を受け止めた。  海は美形で頭が良く、いうまでもなく女の子によくモテた。対してぼくは、細い目に低い背、運動音痴で、勉強だってそんなにできない。ぼくらはきっと、というか絶対、“幼馴染”というカテゴライズ(この言葉合ってるか?)がなければ仲良くなんてなっていなかっだろう。ぼくは海のような人気者に、間違っても近づこうとしなかっただろうし、海だってぼくみたいな日陰者のこと構いもしなかったはずだ。  けれどぼくらは友達になった。  それはぼくらが“幼馴染”だったからだ。  海が死んでからも、当たり前みたいに朝は来た。靴ひもを結んで家を出て、大人しく椅子に座って授業を受け、放課後になれば家に帰って眠りにつく。そういう風にただ淡々と、時間が流れてゆく。  ぼくが思うに、海は運がなかったんだ。それも、生まれながらにとんでもない外れクジを引き当てた。ぼくの幼馴染、なんていう、外れクジ。  毎晩布団を被っては、そんなことを考える。海の、ちょっと長い前髪とか、いつも几帳面に切りそろえられていた爪とか、ごつごつしたスニーカーとか、そういうものを思い浮かべながら。  その日の晩は特に気持ちがずしんと重くて、まるで水を吸ったコートを着て布団に潜っているみたいだった。  枕に額を押し付けていると、そのままどこまでも沈んで行ってしまえそうな気がした。本当にそうなればいいのに。本当にそうなれば、どれだけ楽だろう。 「ぼくが死ねばよかったんだ」  だから、海が死んだあの日から、胸の中をずっと行ったり来たりしていたその気持ちが、するんと口をついて出た。  するとどうだろう、どこからかにょきっと手が伸びて、枕に顔を埋めるぼくの後頭部を容赦なくぶん殴り、 「この大馬鹿野郎!」  と言った。                * 「この俺が、折角命を賭してまで助けてやったのに、なんだその言いようは! いいか、次同じことを言ったらお前を殺すからな。足首を掴んで、地獄の一丁目まで引きずって連れて行ってやる。わかったか!?」  は?  わかった、ぼくは夢を見ているんだ、そうに違いない。 だって、そうじゃないと今目の前で起きている現象に説明がつかない。 「おい、聞いてんのかよ、お前。なんだその間抜け面は」 「……わ、悪い夢でも見ているのか?」 「悪い夢? ふん、本当にそうだな、それについては概ね同意してやる。おい、何布団に潜ろうとしていやがる、ちゃんと見ろ、現実を!」  そこにいたのは、まぎれもない海だった。  生前と何ら変わらず、紺の学生服姿でぼくのベッドの上に立っている。おそるおそる手を伸ばしてその足に触れようとすると、すかっ、と手が宙を切った。 「残念だったな。お前からは俺に触れることはできない。そういう“決まり”だからな」  ふふん、と鼻で笑う海。綺麗な顔が下品に歪む。  幽霊? 怨霊? 悪霊? 妖怪? 物の怪? 漫画やアニメで見聞きしたありとあらゆる非現実用語が頭の中を駆け巡る。ぼくが黙り込んでいると、海はじれったそうに「お前は本当にどんくさいな」と言った。 「う、海、本物なの?」 「偽物の俺でもいるっていうのかよ」 「うわ」  この憎たらしい口調、間違いない、海だ。 「この二週間、黙って見てりゃあお前、死人の俺より死人みたいな暮らしをしやがって」 「だって、そんなのさ! 海、ぼく海に謝りたくて……! ごめ、」 「おっと、ストップ!」  海は、大きな声を出してぼくの言葉を遮った。  こいつ、こんなキャラだったっけ? いつもスン、とした顔をしていたし、こんなに声を張っているところなんて見たことがない。 驚いて目を見開いていると、海はベッドから降りて、キャスターつきの椅子に腰かけた。背もたれの部分を抱え込むようにしながら、数学の先生みたいな口調でこう続ける 「いいか、その言葉を決して口にするな。その言葉っていうのは、今お前が言おうとしていた三文字の言葉だ」 「え……どうしてだよ。だってぼく、」 「どうしてもこうしてもない。そういう“決まり”なんだ。お前がその言葉を口にした途端、俺はお前の前から消えることになる」  また“決まり”だ。そもそも、どこの誰がどう決めた“決まり”なんだよ。 「いいか、本当なら俺は今頃、天国で悠々自適な生活を送っているはずだったんだ」 「天国って本当にあるの?」 「話の腰を折るな」  むっとした顔で海が言った。  海の話は、まとめるとこうだった。   ① 海は二週間前、あの真夜中のプールで確かに死んだ。これは間違いない。 ② けれど本人からしたら、明確に自分は死んだんだ、という実感はなく、魂が体からピンセットでひょいと引っこ抜かれたような、そんな呆気ないかんじだった。 ③ なにはともあれ行くべき場所へ行こうとしたら(行くべき場所って? と聞いたけど、教えてくれなかった。自分で死んだ時に確かめろってさ)、偉い人に行く手を遮られて(偉い人って? と訊いたけど以下略)、なんと可哀想な少年! と同情された。  ④ その偉い人は、心残りがあるのなら、それを全部清算してからここへおいで、と言った。  そして、海にとっての心残りというのは―― 「……え、海、ぼくが心残りなの?」 「そうだ。お前というやつは、まったく情けない!」 「は、はあ」 「あんなどうしようもない馬鹿で、木偶の棒で、下品な奴らに目をつけられるなんて、精神がたるんでいるんだ」 「べつに……好きで目をつけられていたわけじゃないよ。ぼくだって色々あるんだ」 「そんなことはわかっている。俺が気に入らないのは、お前、あいつらに金を渡していただろ」  がしゃん! と音をたてて、海が椅子から立ち上がる。 「どうしてあんな奴らに大人しく従うんだ? お前は昔からいつもそうだ。何も悪いことをしていないのに謝る、へこへこする、面白くもないことで無理して笑う」 「もうやめろってば!」  脇腹のあたりがむずがゆくなって、ぼくは声を荒げた。  ぼくは海とは違う。ぼくには海みたいに、思わず人の背筋を凍らせるような鋭い目はできない。ああいう攻撃的な表情をして様になる海がうらやましい。ぼくが誰かを睨みつけたところで、ただ滑稽なだけだから。 「満、俺はお前が心配なんだ。ただでさえ目をつけられやすいお前が、これからちゃんと生きていけるのか。俺がいなくてもお前が立派にやっていけるってわかれば、俺は大人しく消えるよ。それが俺の“心残り”だから」 「お前はぼくのお母さんかよ」  自虐的にそう言うと、海はわずかに笑った。なんだか気まずくなって、ぼくは誤魔化すように口を開いた。 「でも、どうしてその……えーと、三文字の言葉を言っちゃいけないんだよ」 「そんなの、俺がお前に謝られたくないからだ。だってこのままいくとお前、いつまでもうじうじうじうじ、悲劇の主人公みたいに俺のことを引きずって生きていくことになるだろ」 「ウッ……」  確かに、ぼくにはそういうところがある。 「想像しただけでもゾッとするね。何年後かに大人になったお前が、酒の席で親しい友人にこう言うんだ。哀愁漂う笑みを浮かべながら、『実はぼく、中学生の時に、幼馴染を亡くしているんだ。』『ぼくのせいで死んだのさ』」 「……お前がぼくをどういう奴だと思っているのかはよくわかった。よくわかったうえで、お前のそのゾッとする想像には一つ大きな欠点がある」 「は? なんだよ」 「現時点でぼくに、親しい友人なんていないし、この先も多分できない」  そんなこともわからないなんて、海は間抜けだな。  そもそもぼくには学校で、まともに話をする相手なんて海くらいしかいなかったし、その海がいなくなった今や、まともに声すら出さない。  ぼくが言うと、海は片目を細めて不快そうな顔をした後、 「そんなことで威張るな!」  と言って、机の上に置いてあった辞書を投げつけてきた。  辞書はぼくの額にクリーンヒットし、ごんっ! という凄い音とともに地面に落ちた。 【惨状】――みじめな・(むごたらしい)ありさま。    偶然開いたページに書いてあった言葉は、まさしく今のぼくの状態を表していた。
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