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「人の彼女と随分楽しそうに話していたじゃないか」    帰り道、当たり前みたいにふわふわ浮かんでぼくを待っていた海は、ちょっと不機嫌そうにそう言った。 「盗み聞きしていたのか? 趣味が悪いぞ」 「話の内容までは聞いていない、遠くから見ていただけだ。それに……聞かなくてもなんとなくわかる」  いつもスカした海でも、自分の彼女が他の男と話していたら、例え相手がぼくでもそれなりに不快らしい。  海のことを大切に思って涙を流した須賀さん。須賀さんのことを大切に思っている海。葬式で大泣きしていた海の両親。寂し気に空っぽの机を見つめるクラスメートたち。  ずしん、と気分が重くなる。  ぼくは海から海の人生を取り上げただけじゃない。他の人の人生からも、海を取り上げてしまったんだ。 「彩音は、なんて言っていたんだ」 「え? ……聞かなくても、なんとなくわかるんじゃなかったのかよ」 「そうだけど、でも聞きたいんだ」  ぼくの前を泳ぐように進む海の表情は見えない。 「……海のこと、自慢の恋人だったって。大好きだったって言っていたよ」 「ふうん……」  悪いことしたな。  海はぽつんとそう言った。それは、そんなの、ぼくの台詞だ。  海に謝りたい。大きな声で泣いて、洗いざらい胸の内を話して、本当にごめんなさいと言いたい。けれどそれは許されない。 「可愛いだろ、彩音」 「え?」 「お前、話している時鼻の下伸びていたぜ」 「は!? そ、そんなわけないだろ! 真面目な話をしていたんだから!」 「どーだか!」  海はけらけらと笑った。  どうしてこいつはこんなに呑気なんだろう? 死んだというのに、この世から、消えてしまったというのに、まるでそういうことをすっかり受け入れているように平然とした顔をしている。 「俺と彩音がどこまでいっていたのか、知りたいか?」 「いいよ、もう、うるさい」  にやにや笑う海を手で払うようにしながら、ずんずん進む。 「あのさ、海。真面目な話、こうしてぼくのところにずっと居たって面白くないだろ」 「なんだよ、いきなり」 「だから、なんていうか……具体的に海は、ぼくがどうなれば無事に、その、」 「成仏できるかって?」  成仏、という言葉に、ぼくは言葉を詰まらせた。 「だから、昨日も言っただろ。お前が、俺がいなくてもしっかりやっていける、ってわかれば大人しく消えるさ」 「だから、それって具体的にどういうのなんだよ。ていうか第一、ぼくらそんなにずっと一緒ってわけでもなかっただろ。お前は人気者で、ぼくは地味で静かで……いじめられっこだった」 「そんな卑屈になるなよ」  卑屈にならずにいられるか? 小さい頃からいつも横に、絵本か何かから出てきた王子様みたいに綺麗な海が居て、ぐんぐん世界を広げていく。ぼくはそれをじっと見ている。じめじめして、暗い場所から。 「そうだなあ、確かにお前の言う通り、お前がこれから友達を作ったり、恋人を作ったりするのは難しいだろう」 「う、うるさいな」 「元は自分で言ったんだろ」  意地が悪い。  恨めしく思ってぎろりと睨みつけると、海はけらけら笑って「まあまあ、そんなに焦らなくてもいいじゃないか」と言った。 「何もそんな、あれもこれも手に入れろとは言っていない。俺だってそんな、今すぐに成仏したいってわけじゃないしな。世話になった人たちにお別れを言ってまわったり、思い出に耽ったりする良い時間をもらったと思っているんだ」 「……なんだそれ」 「要は、清く正しい生活をしろってことだよ」 「それだけでいいの?」 「ああ、それだけでいいよ」  そんなの、簡単じゃないか。そんなことだけで本当に海は安心するのか? 「お前今、簡単じゃん、って思っただろ」 「え、うん……」 「清く正しい生活っていうのは、そんな一筋縄じゃあいかないぜ」  そういうものだろうか?    海がそこら辺をふわふわ浮いては口を出してくる生活は、それからあっという間に数日間が過ぎていった。 「飯食ったら食器くらい洗ったらどうなんだ?」 「おい、ちゃんと髪乾かせ」 「お前、英語の課題出てただろ? どうせやらなきゃいけないんだから、さっさと片付けろよ」 「前髪伸びたな、そろそろ切れよ、視力が悪くなるぞ。俺が切ってやろうか?」 「おばさんが洗濯機回す時間わかってるんだから、ちゃんとそれまでに洗濯物出せよ」 「もーっ、うるさいな!」  ぼくが叫ぶと、海はぎょっとした顔でぼくを見た。  海の言っていることは大体正しい。流石“清く正しく”生活しろ、なんて言ってきただけはある。けれど四六時中そんな風に口を出されては嫌になってくる。 「うるさいとはなんだ」 「ぼくは海みたいにできた人間じゃないんだ。そんなにいきなり、あれもこれもなんて……いや、なんでもない」 「お、おい、どこ行くんだよ、こんな時間に」 「コンビニ行ってくる。ついてこなくていいよ、すぐ戻る」  ついてこなくていい、なんて言い方をしつつ、ついてこないでくれ、と思っていることを、賢い海はきっとすぐに察しただろう。その証拠に、引き留められることも、いつもみたいに小言を言われることもなかった。 「満……? どうしたの、どこへ行くの?」 「ちょっと、コンビニ」 「そう……気を付けてね、すぐ戻るのよ」  母親はおろおろとした目でぼくを見た。  本当はわかっている。母親は何も悪くない。だから、こんな風に強く当たっちゃいけないんだ。それどころか、離婚したばかりで不安定な母親を、本当は支えてあげなくちゃいけない。  海ならきっとそうしただろう。  でもぼくはできない。家にいるとむかむかして、気分が落ち込んで、自分の中の穏やかな部分がどこかへ行ってしまう。  コンビニにたどり着いて、ちょっと迷いながらコーラを二本買った。海は多分飲めないだろうけど、こういうのは気持ちが大事だ。 「……めて、離して!」 「いいから、大人しくしろ!」 「嫌!」  怒鳴り声が聞こえて、ハッとした。  人気の少ない細い通り、車が一台止まっていて、助手席のドアが開いている。そしてそこに、一人の女の子が押し込まれようとしている。  誘拐?  頭が真っ白になって、咄嗟に周囲を見回したが、誰もいない。もう一度車の方に目を向けた時、女の子と確かに目が合った。その拍子に、バチッ! と音が鳴って、星が砕けたような気さえした。  助けて。  女の子の目は、ぼくに確かにそう訴えかけた。  ばさっ、と手に持っていたビニール袋を落として駆け出す。考えるより先に体が動いていた。 「う、うわああああああっ!」 「ああ!? ぐっ、なんだテメェ!」 「行こう!」 「え、え……」 「早く!」  女の子に覆いかぶさるようにしていた男に思い切りタックルをして、男がよろめいた隙に手を取り駆け出す。 「待てコラ、クソガキ!」 「ね、ねえ、行くってどこへ……!」 「いいから!」  心臓がうるさいくらいドキドキいっている。破けてしまいそうだ。背後から聞こえていた男の声は、しばらくすると段々小さくなっていった。  人通りの多い駅の近くまで来て、ぼくらはようやく足を止めた。ぜぇぜぇと肩で息をするぼくと違って、女の子はちょっと呼吸が乱れているくらいだった。ちくしょう。自分の体力の無さが恨めしい。 「……助けてくれて、ありがとう」 「え? いや、ぼくは……」 「君、中学生? 中々勇気あるじゃん」  呑気にそんな世間話みたいなことを繰り広げる女の子に、ぼくは唖然としてしまった。人があんな、決死の思いで連れ出したのに、なにを悠長な――。  そこまで考えてからハッとした。必死で笑顔を浮かべる女の子の手が、わずかに震えていた。 「あの……大丈夫ですか?」 「うん、大丈夫。流石にちょっと、びっくりしちゃったけど」  こういう時、どうするべきなんだろう。ええと、まずは警察? ちょうど近くに交番があるし……。 「私、岬。あなたは?」 「え……川野です」 「苗字じゃなくて!」 「満です」 「どういう字書くの?」 「一文字で……満月の満で、満です」 「へえー」  女の子――岬さんはにやっと笑って、 「名前のわりには、満たされてなさそうだね」  と言った。大きなお世話だ。  ぼくがむっとしてると、岬さんはくすくす笑って「ごめんごめん、怒んないで」と言った。  なんだか不思議な人だ。白いワイシャツに、プリーツの多い黒いスカート。制服の上に武骨なMA―1を羽織っていて、頬に大きな絆創膏を張っている。ぼくに対するさっきの物言いからして、高校生だろうか? 「あの、さっきの人は……」 「ああ……あれね、私のお父さん」 「お父さん!? え!? いや、でも……!」  お父さんのわりには、随分若く見えた。ぼくの気のせいだろうか? 「よくあるんだ、ああいうこと。……さ、じゃあ私もう行くね」 「行くって、」 「帰んなきゃ」  岬さんは、ぽつん、と言った。帰る、という言葉が、こんなに寂しい響きを持つ人を、ぼくは初めて見た。 「また会おうね、満たされてなさそうな満くん!」  あはは、と笑いながら、ひらひらと手を振って、岬さんは夜の街の人込みに溶けて行った。  ぼくはなんだか茫然としてしまって、しばらくそこから動けなかった。岬さんの細い腕を掴んだ右手が、じんじん熱を持っている。  それでもなんとか家に帰ると、浴室の方からシャワーの音が聞こえてホッとした。母親と顔を合わせずに部屋へ戻れる。 「遅かったじゃないか」  海はつまんなそうに椅子に座って、背もたれのところで頬杖をつきながらそう言った。 「ああ、うん、ちょっとね」 「お前、コンビニへ行ったのに、何も買わなかったのか?」 「あ」  言われて気づいた。コーラが二本入った袋を落としてきてしまった。  しまった、という顔をするぼくを見て、海は何か言いたげだったが、ぼくがついさっき「そんなに口うるさくするな」というようなことを言ったのがきいているのか、何も言ってこなかった。 「あのさ、海」 「……なんだよ」 「この間辞書をぶん投げていたし、物には触れるんだよな?」 「ああ」 「じゃあさ、」  ぼくは机の引き出しからトランプを取り出して言った。  ごめんの一言が言えないのなら、せめて。 「久しぶりに、やらない? スピード」 「……お前、弱いくせに」 「うるさい!」  昔はよく二人でやった。ぼくには海しか遊び相手がいなくて、海にはぼくしかいなかった頃。段々と、成長するにつれてぼくらの間には会話が減っていった。元々僕らは真逆のタイプだし、家が隣どうしというだけの繋がりだったから、当たり前のことなのだけれど。 「手加減はしないぞ」 「ぼくだって」  結局、何度やったってぼくはボロ負けをしたけれど、昔に戻ったみたいでほんの少し嬉しかった。
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