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3
季節は十一月。
海が死んでから、もうすぐで一か月が経つ。
「川野、お前、将来やりたいこととかあるのか?」
「やりたいこと、ですか」
二年生になって最初の二者面談。担任の岡崎先生は、穏やかな眼差しでぼくを見つめながらそう言った。
「なんでもいい。漠然としていたって、途中で変わってしまったってもちろん構わないんだ。けれど、目標を定めて、そこへ向かって努力をすることは大事だぞ」
「はあ……」
「今の成績だと、受験も中々厳しいだろうし……」
通知表をちらりと見ながら、岡崎先生はほんの少し眉間に皺を寄せた。
そう、ぼくの成績はあまり良い方ではない。クラスに三十二人いるとして、二十七番目くらいの成績、それがぼく。
黙り込んでいるぼくに対して、岡崎先生は苦笑してから「まあ、今はあんまりそういうこと考えられないよな」と言った。
「最近は、どうだ? その……神崎のこと」
「どうって、」
海のことについて聞かれて、ぼくは顔をしかめてしまった。
どうって聞かれても。死んだ海は幽霊になってぼくのまわりをさ迷っています、なんて言えないし……そもそも先生は、ぼくに何を聞きたいんだろう?
考え込んでいると、岡崎先生は慌てて「ああいや、そんなに悩まないでいいよ」と言った。ぼくにあまり刺激を与えてはいけないと思ったんだろう。
「村岡たちのことだが」
久々に聞いた名前に、びっくりして思わず体を固める。
「今はまだ少年鑑別所に収容されていて、取り調べを受けている。事件が事件だからこの後審判に進むことになりそうだ」
「……あの、ぼくあんまり詳しくなくて。何かその、実刑を受けることはないんですか?」
「神崎のご両親が言うには今、そうなるようになんとか話を進めているって。先生も知らなかったんだが、未成年でもその、今回みたいに……」
ごほん、と咳ばらいを一つする先生。
「重罪を犯した場合、検察庁へ送られて、刑事裁判手続きに進むこともあるそうだ。そこで有罪になれば未成年といえど前科がつく。……お前にこんな話をするべきか、本当は迷ったんだ。でも、お前は目の前で見てしまったし……それにこれから、審判が始まれば、証人として呼ばれることもあるだろう」
「証人」
言いなれない言葉を発したので、ちょっとだけ口がもつれた。
「川野、今はまだクラスの連中も落ち着かなくて、居心地が悪く感じることもあるかもしれない。けれどお前は胸を張って学校へ来ていいんだよ。その……あーっ、駄目だな、俺は! 上手な言葉が出てこない」
岡崎先生が急に大きな声を出してそんな風に叫び、がしがしと頭を掻いたので、ぼくは驚いて目を丸くさせた。先生は、いつも穏やかでにこにこしているのに、今はちょっと悔しそうに表情を歪めている。
「とにかく、何かあったら、何でもいいから先生に相談しにおいで。そのために居るんだから、教師っていうのは」
「はい……ありがとう、ございます」
なんだか照れ臭いような気がして、ぼくはちょっと目を逸らした。
岡崎先生がぼくの担任だというのは、とても幸いなことだった。隣のクラスの林先生(体育の先生で、いつも赤いジャージを着ている)は声が大きくて、何か間違ったことをした人が居たらクラス全員の前で立たせ、どうして自分が今立たされているのか、わかるか? と訊いてくるようなタイプの人だ。(つまりぼくが一番苦手なタイプの人種である)
隣の隣のクラスの安藤先生は生徒に対してやけに慣れ慣れしくて、友達みたいに接してくる。一部の生徒から「うざい」とか「きもい」とか言われているのに気づいていない。そういう痛々しさが、ぼくにはなんだか辛く思える。
「先生、川野は作家になりたいんだと思っていたよ」
「えっ」
「よく本を読んでいるし、感想文なんかもクラスで一番上手に書けている。なんていうんだろう、構成がうまいんだよな。短い文章の中でも、起承転結がちゃんとまとまっていてさ」
「あ、ありがとう、ございます。でもぼくは、そんな、」
「お前、良いところがたくさんあるよ。だからさ、将来のことも、ちゃんと考えていこう。ちょっと、いや、ていうかかなり面倒かもしれないけどさ。俺もそうだったし」
ははは、と笑う岡崎先生につられて、ぼくもちょっと笑った。久しぶりに心から笑えた気がする。
あまりよくない結果が書かれた通知表を眺めながら帰路につく。けれど、不思議と気分は沈んでいない。
こんなに悪い成績なんだから、どこへも行けないぞ、って言われると思っていたのに、まるで、どこへでも行けるんだから頑張れ、って背中を押されたみたいだった。
ぼくは単純だから、そういう一押しがとても嬉しいのだった。
神崎家の前を通り過ぎようとしたら、玄関の前に海が立っていた。
「海?」
声をかけると海はゆっくり振り向いた。
こちらを見つめる目にぼくは思わずドキリとした。生気のない、暗い瞳。そこにいる海はまるで空っぽで、心も感情も何もないように見えた。
「なんだ、お前か」
けれど海はすぐにいつも通りの顔になって、「面談はどうだったんだ」と訊いてきた。ぼくは、暴れる心臓をなんとか押さえつけながら、「べつに、普通だよ」と返した。
今の、なんだったんだろう。今まで一度だって見たことのない目をしていた。
「満くん?」
背後から綺麗な声が聞こえてきてハッとした。振り向くとそこには、すっかり疲れた顔をした海の母親が立っていた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは。家に何か御用?」
「あ、いえ、その……」
「よかったら、お線香あげていかない? 満くんが来てくれれば、海も喜ぶわ。ね、おいしいお菓子もあるの、是非そうして頂戴」
ぼくは思わず海の方をちらりと見た。海は肩をすくめて、やれやれ、というような顔をしている。
「行ってこいよ。母さん、お前が好きなんだ。俺は散歩してくる」
「さあどうぞ、入って。最近お掃除ができていなくて、恥ずかしいけれど」
二人は、ほぼ同時にそう言った。
海の家に来るのは久しぶりだ。たぶん、小学生の時以来だと思う。中学に入学してから海は、元々持っていた才能をぐんぐん伸ばして、サッカー部では入部してすぐにスタメンに入っていたし、勉強だっていつも一番できた。
一方ぼくは小学生の時と何ら変わらず、ただぼんやりと日々を過ごした。一年、二年とクラスが同じだったこともあり、まあそれなりに会話はしたが、それでも昔のようにとはいかなかった。
昔。ぼくと海がまだうんと小さかった頃。
「満くんが来るの、久しぶりねえ」
「そう、ですね」
二階建ての、大きな一軒家。リビングにはいつも日差しが差し込んで、窓から外の庭がよく見える。置かれている家具も使われている食器も何もかも、うちと違う。海の家は、どこか遠い外国に来たように思わせる何かがある。
そして、そんな異国じみたリビングのど真ん中に、真っ白い祭壇が置いてある光景は、一瞬ぎょっとしてしまうほど奇妙だった。
「四十九日まで、お骨を置いておくのよ」
ちょっと照れたような顔で笑う海の写真が、黒い縁の写真たての中で陽の光に照らされて光っている。たくさんのお菓子や手紙、海が使っていたユニフォームやボールなんかも置いてある。
ここに、海の骨がある。
急に、ずしん、とお腹の奥底で何かが質量を増したような気がした。海のために捧げられたすべてのお供え物たちが、ぼくに対して「お前のせいだ」「謝れ!」と言っているようだ。
そして同時に、もし自分だったら? と考えてしまう。そんな自分に嫌気がさした。
もし死んだのがぼくだったら。こんなにたくさんの人に惜しまれはしなかっただろう。母さんと父さんは悲しむかもしれないが、でもそれまでだ。
だったら、
だったらぼくが――。
「満くんが無事で、海はきっと喜んでいるわよ」
優しい声。ハッとして顔を上げると、おばさんが潤んだ目でぼくを見ていた。海によく似た、宇宙みたいに大きな目。ぼくはなんだかたまらないような気持ちになって、「そんなの、でも、」と口ごもってしまう。
ぼくはおばさんに促されるままお線香に火をつけて、海の遺影と遺骨に向き直った。
なんだか変なかんじだ。この家を出て、自分の部屋に戻ればきっと、ふわふわ浮かんだ海が「遅かったな」とか「早く宿題片付けろよ」とか言ってくる。
海はもういないのに。
「あのね、満くん」
お洒落なティーカップに紅茶を注ぎながら、おばさんは言った。
「ごめんなさいね、私、やっぱりまだ気持ちの整理がついていなくて……あなたのことを見るととても辛いの。あなたのことが憎いとか、そういうわけじゃまったくなくて、あなたを見ると、その横に海もいるんじゃないかって、そう思うの」
ごめんなさいね、とおばさんはもう一度謝った。謝る必要なんてまったくないのに。謝らなければいけないのは、ぼくの方なのに。
「いつか海が、綺麗なお嫁さんをつれてきて、そのお嫁さんとの間に可愛い子供が生まれて、私はおばあちゃんになる。海とお嫁さんが仕事で大変な時は孫の面倒を見てあげたり、食事を作りに行ってあげたりする。私ね、そういう未来を、当たり前みたいに夢みていたのよ。私……」
「すみませんでした」
たまらなくなって、ぼくは頭を下げた。胸が張り裂けるように痛い。痛くて痛くてたまらない。
ぎゅっ、と拳を握りしめて、手のひらの中にそういう痛みを全部閉じ込めるようにしながらじっとしていると、おばさんはハッとしたように「や、やだ、違うのよ!」と言った。
「本当に違うの、ごめんなさい。あなたにそんな顔をさせたかったわけじゃなくて……私は、私はただ、」
おばさんは言った。
「昨日までの当たり前が、今日も同じように続くとは限らない、なんて、そんなこと、わかりきったつもりでいたの。でも……でも、だからね、満くん。だからこそあの子のしたことは、本当に尊いことだったと、そう思うわ。ねえ満くん、覚えてる? あなたと海が、初めて出会った時のこと」
ぼくは俯いたまま首を横に振った。
「そうよね、あなたもあの子も、まだうんと小さかったもの。あの子ったら、ふふ……おかしい! あなたのこと泣かせちゃったのよ、初対面で! あ、ごめんなさい、笑い話じゃないわね」
涙をぬぐいながら、それでも優しく笑うおばさん。ぼくはそっと顔をあげた。夕陽が窓から差し込んで、きらきらと光って見える。
「あなたももちろん悪くないんだけど、あの子も悪くなかったのよ。ほらあの子、目つきが悪いでしょう? それで多分、あなたびっくりしちゃったのね。わあわあ泣いて、お母さんの元へ走っていって。四歳くらいだったかしら?」
「そ、そうでしたっけ」
当たり前だが、覚えていない。ぼくは誤魔化すようにティーカップに口をつけた。生ぬるくなっていて、けれど緊張してカラカラの喉には心地よかった。
「最初はどうなることかと思ったけど……やだ、ごめんなさい」
おばさんはまた涙を拭ってうつむいた。
帰り際、おばさんはぼくに何度も「また遊びにきてね」と念押しするように言った。その表情が本当に優しく、そして悲し気で、ぼくは何も言えなくなってしまった。
海、お前、やっぱり馬鹿だよ。大馬鹿だ。
岡崎先生と進路の話をしていたのが遠い過去のことのように思える。すぐ隣に自分の家があるのに、なんとなく帰る気になれなくて項垂れた。
そんなことしたって、苦しくなるだけなのに、海に訪れるはずだった未来を想像してしまう。
きっと、県内で有数の偏差値の高い高校に難なく合格して、華々しい高校生活をスタートさせる。サッカー部に入って、たくさん友達を作って、チームのエースになる。須賀さんはあまり勉強が得意ではないようなので(これはぼくの主観的な意見ではなくて、そういう噂を耳にしたのだ)、別々の高校に通いながらも交際を続ける。
そのままやっぱり賢い大学に進学して、教師や周囲の仲間からも期待されながらどこか大手企業に就職する。結婚して、子供を産んで、その子供は海に似てとびきり美形で――。
「お前は俺が死んだことを嘆いているんじゃない。俺の未来が失われたことに対して、もったいない、って悔やんでいるんだ」
「えっ」
声が聞こえた気がして振り向いても誰もない。夕陽に照らされて不気味なくらい色濃く伸びる、ぼく自身の影がゆらゆら揺れているだけだ。
途端、その影ににんまりと三日月型の歯が現れて、嘲るようにこう言った。
「お前は残酷な奴だよ」
「自分のことしか考えていないんだ、いつだって」
「俺が死んだことなんて本当はどうでもいいと思っている」
「ただ罪の意識から逃れたいだけだ。お前はいつもそうだ。目の前のものをちゃんと見ないで目を逸らす」
「や、やめろ、違う!」
「……み、満くん?」
声をかけられてハッとした。
心臓が信じられないくらいドキドキいっているし、冷や汗をかいている。慌てて背後の影をもう一度見る。何の変哲もない、黒い模様だけがそこで揺れていた。
「大丈夫? どうしたの?」
「あ、いや……」
「顔、真っ青だよ。何かあった?」
近づいてきた女の子のことが一瞬誰だかわからなくて、ぼくは怯えるように一歩下がったが、それがつい先日知り合った少女、岬さんであることがわかると、なんだか少しホッとした。
「み、岬さん」
「こんにちは。……ねえ、こっち来て!」
「えっ!?」
岬さんは笑ってぼくの腕をぐいぐい引き、近くにあった公園に足を踏み入れさせた。問答無用でブランコに座らされる。
「あ、あの、」
「待っててね」
そう言い残すと、岬さんは公園から出て行ってしまった。唖然とするぼく。どうしよう、なにこれ? 何の時間なんだ?
言われるがまましばらく待っていると、岬さんは缶ジュースを二本抱えて戻ってきた。
「はい、あげる」
「え、でもそんな、」
「いいのいいの! この間のお礼。それに君この間、なんか落としていたでしょ、ジュースみたいなの」
「あ……う、気づいていたんですか」
バレていた。格好がつかないな。
なんだか照れ臭いような気持ちになって、ぼくは目を逸らした。
「じゃあほら、乾杯しよう、乾杯」
「乾杯って……何に対してですか?」
「え? うーん……私たちの青春に、かな?」
「はあ?」
「かんぱーい!」
こん、となんともいえない微妙な音が鳴って、缶どうしがぶつかり合う。
プルタブを開ける。岬さんがぼくにくれたのは桃の味のするサイダーだった。こんな可愛らしいパッケージの飲み物、自分じゃあまり買わないから、新鮮だな。そんな風に考えながらちびちびと飲み口に口をつけていると、「この間はありがとね」と小さく声が飛んできた。
「あ、いえ……あの後、大丈夫でしたか? その……」
「ああ、うん、平気。うちいつもああなの」
「そう、ですか」
カテイノジジョウ、ってやつか。
「君は? なんだか、幽霊みたいな顔してたけど」
「いや、ちょっと……嫌なことがあって」
嫌なこと、という言葉を選んでしまったことに対して、瞬時に後悔した。
どこが嫌なことなんだ? 海のことを考えるのは、嫌なことなんかじゃないはずだ。それどころか、きちんと向き合っていかなければいけないことだ。
なんだか頭が痛くなってきて、文字通り頭を抱えた。
「なになに、どうしたんだい。この岬さんに話してご覧よ」
「……人に話せるほど、簡単な話じゃないんです」
「人に話せるほど簡単じゃないって話ほど、人に話して簡単にしちゃった方がいいと思うけどな。まあいいけどさ、言いたくないなら、それで」
そう言って、MA―1のポケットに片手をつっこむ岬さん。相変わらず頬に貼られた絆創膏が痛々しい。ぼくはなんだか気になって、「あの、」と口を開いた。
「その……頬のやつ、どうしたんですか?」
「え? ああ……お母さんにね」
「え」
お母さん? お父さんじゃなくて?
ぽかんと口を開いて唖然としていると、岬さんは長い睫毛を伏せながら口を開いた。
岬さんの話は壮絶だった。漫画やドラマの話を聞いているみたいだった。
お酒に酔ってよく岬さんに手をあげる父親。外面は良くて、会社では重役を担っている。母親は忙しい父親に内緒でホストクラブに通いつめ、若い男にお金を貢いでいる。まだ幼い弟がいて、その面倒は岬さんが見ている。両親は岬さんと弟のことを目をかけないので、もちろんお金も寄越してくれない。岬さんは毎日、学校に行く暇がないくらいアルバイトに明け暮れて生活しているそうだ。
「だからこの間、君がお父さんに立ち向かってくれた時、私嬉しかったよ。私……ずっと自分には価値なんてないんだ、って思っていたから」
「そ、そんなことないです!」
ぼくは言った。思いのほか大きな声が出て、自分で自分にぎょっとした。
「岬さんに価値がないとか、そんなこと絶対にないです。だって岬さんは何も悪くないし、それどころか、アルバイトをしてお金を稼いで、その上弟さんの面倒まで見て……!」
「そう、かな」
「そうですよ! 少なくともぼくはそう思います。だって、ぼくなんて……」
気づくとぼくの口は、今まであったことを洗いざらい話していた。
辛い境遇に居て、それでも笑顔を絶やさない岬さんにならなんでも話せる気がした――いや、そうじゃない、それだけじゃない。ぼくは岬さんに、自分の話を聞いてほしかったんだ。
父さんが出て行ってしまったこと。母さんがぼくに気を遣って、壊れ物でも扱うみたいに接してくること、それがとてもしんどいのだということ。村岡たちの万引きの現場を目撃してしまって、そのせいで目をつけられてしまったこと。
そして、その末に海が死んでしまったこと。
流石に、その海が幽霊になって自分の周りをさ迷っている、なんてことまでは話せなかった。だけど全て言い終えた時、ぼくの心の中にずしんと沈んでいた重石のようなものが、ほんの少し軽くなった気がした。
岬さんはうんうん頷いてぼくの話を全部聞き終えると、
「……息苦しかったねえ!」
と、そう言ってちょっとだけ笑った。
その言葉が、すとん、と自分の中に落ちてきて、じんわりしみこんでいくような気がした。
そうだ、ぼくは息苦しかったんだ。
この数か月の間だけじゃない。本当はずっと、ずっと息苦しかった。
喉元にいつも誰かの手が添えられていて、何かある度に容赦なく力を込めてくるような、そんな感覚で過ごしていたんだ。
気づくと右目からほろりと一粒涙が零れ落ちて、慌ててそれを拭った。岬さんは何も言わない。茶化しもしないし、大丈夫? と顔を覗き込んでくることもない。ただ黙って、空の缶をぺこぺことへこませるだけだ。
ぼくにはその距離感がありがたく、そしてとても心地よかった。
帰り際、ジュースごちそうさまでした、と頭を下げるぼくに、岬さんは「いいんだよ」と優しく笑った。
ここで別れたら、次、いつ会えるかわからない。今日はたまたま、運がよく会えただけで、次回もそうとは限らない。
ぼくは岬さんにまた会いたかった。自分と同じ、どうにもならないような悩みを抱えている岬さんと一緒に居ると、なんだかほんの少しだけ気持ちが楽になる。それはもしかして、ものすごく愚かなことなのかもしれないけれど、でもそうならそうで構わない。
今まで一度だって振り絞ったことがない“勇気”とやらを、ぼくは精いっぱい振り絞った。
「あ、あの、また会えますか?」
言った直後にハッとした。アルバイトもあるし、弟さんの面倒も見なくちゃいけない忙しい岬さんにこんなことを言ってしまっては迷惑かもしれない。配慮が足りなかっただろうか?
「え? うん、もちろん!」
岬さんは一瞬驚いたように目を丸くさせた後、にっこり笑った。嬉しそうな笑みだったのでほっとした。
連絡先を交換して、ぼくらは別れた。スマホの通話アプリに並ぶ、数少ない友達一覧に、岬さんの名前が追加されている。そういうことは、きっと簡単に友達を増やせる人たちにとっては些細なことなのだろうけれど、ぼくにとっては思わずじんとするほど幸せなことだった。
その日、家に帰っても海はぼくの前に現れなかった。
「海?」
暗い室内で、ぽつんと名前を呼んでみても、返事がない。どこかに行っているのだろうか? それとも、消えてしまったとか――。
不安になって起き上がり、カーテンを開くと神崎家が見えた。おじさんがいつも使っている車が車庫にない。まだ帰っていないのだろう。
窓を開ける。冬の冷たい空気が頬を冷やす。空を見上げると星がひとつ眩しいくらいにきらりと光っていた。あれは確か、北極星のポラリスだ。あの星に向かって歩き続ければ北へたどり着くのだと、海が教えてくれた。
「海、消えちゃったの?」
呟いた言葉はやけに白々しく冬の空に溶けた。
何をいまさら。海は死んだんだ。――でも、消えたわけじゃない。
消えるって、どういうことだろう?
ぼくは頭の中で、水中でぷくぷく浮かぶ泡を思い浮かべた。ぱちんと弾けて、元から何もなかったみたいに消えてしまう。そうしていつしか何事もなかったかのように、広い海の藻屑になる。
海が死んでも、海がぼくに教えてくれたことはぼくの中で生き続ける。
それは、水泡が弾けて消えるのとどう違うんだろう?
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