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 水嶋くんが引っ越してきたのは、それから数日後のことだった。 「水嶋透です、北海道から来ました。よろしくお願いします」  ぎょっとしてしまうくらい背が高くて、その大柄な体系のわりには顔つきはのほほんと優しい。  童話の世界から出てきた、優しい熊。  彼に対するぼくのイメージは、そんなかんじだった。  水嶋くんは最初、教卓の近くの席を指定されたが、高い身長が後ろの席の人の妨げになり、それなら後ろの席がいいだろう、と、ちょうど空いていたぼくの横の席へやってきた。  ぺこん、と会釈をされたので、ぼくも会釈を返す。その間、ぼくらの間に会話はなかった。  休み時間、水島くんの周りには人だかりができた。 行きかう多種多様な、けれどありきたりな質問たち。どこから来たの? 家はどこ? どうして引っ越してきたの? などなど。  会話の中で水嶋くんは、やっぱり優しく笑いながら、何の悪気も無しにこう言った。 「俺、でかいからさ、後ろの席にしてもらえて助かったよ。でも、窓際の席だったらもっとよかったのになあ。あそこの席の人は今日、休みなの?」  しん、と一瞬で静まり返る室内。みんなが、すぐ横に座るぼくに意識を向けている、ということがわかる。  ぼくはなんだかいたたまれなくなって、席を立った。背後から、水嶋くんの「え、なに、みんなどうしたの?」という戸惑いの声が聞こえて、ちょっと不憫に思えた。  休み時間が終わるぎりぎりに教室に戻ると、水嶋くんが何か言いたげにちらちらとぼくを見てきた。海のことを誰かに聞いたんだろう。 嫌だな。誰かに何かを一方的に思われるのは、本当に疲れるし居心地が悪い。 「あ、あのさ!」  だから放課後、掃除当番の仕事であるゴミ捨てを終えて、校舎裏の手洗い場で手を洗っている時に声をかけられ、ぼくはちょっと顔をしかめてしまった。 「その……さっき、ごめん。俺、聞いたんだ、その、君と、神崎くんのこと。あ、いや、転校してくる前に、事情はちょっとかじってたんだけど、」 「ああ、そう……」  じくり、と胸が痛む。 「べつに、君が気にすることはなにもないよ。わざわざありがとう」 「あ、いや、それだけじゃなくてさ!」  水嶋くんは言った。 「君さっき教室で、本読んでたよね?」 「え? う、うん」 「俺……すっげー、って思ったんだ!」  は?  馬鹿にされているのかと思って思わず眉根を寄せる。独りぼっちで本なんか読んで、ネクラなヤツ、とか、そういうことを言いたいのか? けれど水嶋くんの表情はあくまで真っすぐで、間違ってもぼくのことを馬鹿にしているようには見えない。 「俺も本、好きなんだ。母さんが読書家でさ、家にたくさん本が置いてあって……」 「はあ」 「あ、いや、ごめん、俺急に、うざいよな。ほんとごめん」 「いや、べつに……」  なんなんだ、急に。  学校で、こんなに長時間人と話しをしたのは久しぶりだ。いや、普通ならこれくらいの雑談をするものなのだろう。でもぼくにはあまりに新鮮で、戸惑ってしまう。いや、これくらいで戸惑うなよ、ぼく。 「あのさ、皆がわいわい騒いでいて、その騒がしさの渦に巻き込まれているのに、その中で自分の世界を確立するのって、めちゃくちゃ難しくない?」 「あー……」  言いたいことはわかる。  でももはやぼくにとってそういう感情は、今更感がすごいのだ。そういう感情は、クラスの一員として居場所がちゃんと確立されていて(水嶋くんの言葉を借りて言うのなら、渦に巻き込まれていて)、はじめて成り立つ。  ぼくが黙り込んでいると、水嶋くんは気まずそうに「なんか、変なこと言ってごめんな」と言った。 「いや、その……全然変なことじゃないよ。ただぼくは、」  ぼくは、自嘲気味にちょっとだけ笑いながら言った。 「水嶋くんの言う、“みんな”の世界に入れないから、自分の世界にしがみつくしかないんだ。ただそれだけなんだ」  我ながら情けないことを言っている。でも事実だ。  やることのない休み時間。ただぼうっとしているだけでは変な目で見られる。前の授業の復習をしたり、次の授業の予習をすれば真面目だとかガリ勉だとかいわれるし、かといっていちいち席を立つのも面倒臭い。  どうして皆、授業と授業の間の、たった十分だかそこらの休憩時間に、わざわざ友達のところへ集まったりしようとするんだろう。そんなに話題が尽きないものなのだろうか。ぼくにはよくわからない。そういうことが、たまにものすごくみじめなように感じる。  でも、本を開けばそういう世界から自分を切り離すことができる。たったの十分。そのちっぽけな時間、ぼくに居場所を与えてくれるのが本なのだ。  まあ、そんな複雑かつ面倒な思いを水嶋くんに話せるはずもなく、「ま、まあ、そんなかんじ」なんてよくわからない言葉を最後に話を閉め、逃げるようにその場を後にした。「あっ、」という水嶋くんの声を背後に聞きながら。 「あんな話、初めて聞いたぞ、俺は」 「うわ、海」 「うわとはなんだ、うわとは。人を幽霊みたいに」 「幽霊だろ」  ぼくが言うと、海はそのツッコミを待っていました、とでもいうように笑った。  海と話すのは数日ぶりだ。海がまだ、消えずにこの世界に幽霊としてとどまっている、ということに、密かにホッとした。 「随分久しぶりな気がするけど」 「幽霊といえど、俺だって忙しいんだ」 「ふうん……」 「なんだよ、そんなに寂しかったのかよ」 「いや、授業の時、海が居たら助けてくれたのになあ、って思うことが何回かあってさ」 「……俺はドラえもんじゃないぞ」  不服そうな顔の海が可笑しくて、ぼくは笑った。そういえば、海とはあまり、こういう雑談のようなことはしてこなかった気がする。 「お前が席を立っている間、クラスの奴ら大騒ぎだったぜ。お前と俺のこと、あることないこと騒ぎ立てて話してさ」 「うん、想像つくよ」  気にならないと言ったらウソになるけど、でも、影でこそこそ指をさされて何かを言われるのには慣れている。 「ねえ海。今日数学の課題出てるんだけど、手伝ってくれない?」 「やなこった」  海はそう言い残して、ぽんっ、と消えた。そんなファンタジーな消え方もできるのかよ、とぼくは驚き半分、感心半分で海が居た場所を見つめた。  翌日、登校すると水嶋くんは、体を小さく丸めるようにして、読書をしていた。大きな手が小さな文庫本を両手でつかむと、まるでおもちゃのように見える。 「あ……おはよう、川野くん」 「お、おはよう……ふふっ」 「えっ? な、なんで笑うの?」 「いや……なんでもない」  頭上にクエスチョンマークを浮かべる水嶋くんを他所に、ぼくは鞄を置いて席につき、一限目の授業の準備をはじめた。  水嶋くんが読んでいたのは『赤毛のアン』だった。  熊みたいに大きな水嶋くんが、赤毛のアン。そのギャップがなんだか可笑しく、けれど可愛らしいような気がして、ぼくは笑った。  転校生というステータスの物珍しさで、水嶋くんはしばらくの間よく声をかけられていた。そのたびに、本にしおりをはさんで顔を上げ、丁寧に受け答えをしてからまた読書を再開させる。  クラスメートたちはそんな水嶋くんのことを影でこそこそ言うでもなく、ただそういうキャラなんだな、と都合よく解釈をしたようで、彼が読書をしている時にはあまり声をかけてこなくなった。多分、こういうことがこの間彼自身の言っていた“自分の世界を確立させる”ということなのだろう。 「やってみたら案外、どうってことなかったんだな」  三階踊り場の掃除当番。箒でゴミを掃き集めていると、水嶋くんはぽつんとそう言った。 「なにが?」 「だから、その……学校で本を読む、ってこと」 「ああ」 「川野くん今、そんなこと、って思っただろ」 「え? うーん……うん、思った、かも」 「そんなこと、じゃなかったんだよ。俺にとってはさー」  水嶋くんは言った。埃っぽくて薄暗い踊り場で、やれやれと肩をすくめるようにしながら。 「みんなと違うことをするのって、すごい疲れる。自分がしたくてしているはずなのに。でも俺、この一件でちょっと大人になった気がする、うん」 「なんだそれ」 「あ、また笑った! 川野くん君、俺のことよく笑うよなあ!」  言葉のわりに全然怒った様子でもなく、水嶋くんはそう言って、「まったく」と肩をすくめた。  よく笑う、なんてはじめて言われた。昔から、愛想がないとか何考えているんだかわからない、とか、そういうことばかり言われてきたから。 「川野くんは、どんな本が好きなの? 好きな作家は?」 「え? ……うーん、なんでも好きだけど、でも、推理小説が好きだな」 「あー、好きそう」 「でもぼく、あんまり頭良くなくて。探偵が種明かししているシーンを何回読んでも、いつもいまいち理解できないんだ」 「なにそれ、推理小説の面白さ半減じゃん!」 「そう、本当にそうなんだよ」 「変なヤツだなあ、君って」  水嶋くんは笑った。嫌味っぽくない、真っすぐな言葉だったので、不思議と心地よかった。  ぼくなんかに、一歩踏み込んで色んなことを聞いてくれる水嶋くん。誰かと好きなものの話をするのなんて久しぶりだから、胸の奥がむずむずする。けれどなんだか、今ならぼくでも踏み込むことができるような気がして、思い切って口を開いた。 「赤毛のアン、ぼくも好きだよ」 「え……」 「親友のダイアナが、いちご水と間違えて葡萄酒を浴びるように飲んで、酔っ払うシーンとかあったよね」  小学生の時だかに読んだ記憶を引っ張り出しながらそう言うと、水嶋くんの目がみるみるうちに輝いていった。 「そのシーンをチョイスするなんて、君、やるなあ!」 「あ、ありがとう」 「俺、はじめて飲むお酒は絶対葡萄酒って決めているんだ。だって、ダイアナが水みたいにごくごく葡萄酒を飲み干すあのシーンって、本当に魅力的だろ? すごく美味しそうに書かれていてさ……あーっ、早く飲みたいなあ!」 「おい、お前ら、間違っても未成年飲酒なんかするなよ」  ぼくらの会話に、急にそんな野太い声が飛んできたので驚いてしまった。振り向くとそこには、むっつりと怖い顔をした隣のクラスの林先生が立っていた。 「そんなことしたらただじゃおかないからな。いくらお前たちが、俺のクラスの生徒じゃないとしてもだ」 「もししたら、どうなるんですか?」  水嶋くんの愚かな質問に、林先生はにっと笑って、 「ぶん殴って半殺しにする。さあさっさと片付けろ、お前たちくらいだぞ、こんなにもたもたしているの」 「え、」  本当だ。気づけば周囲には全然人がいなくなっていた。  このご時世、ちょっとうるさい保護者に聞かれたら大問題になりそうな発言を残して、林先生は去って行った。ぼくらはその真っ赤なジャージに包まれた後ろ姿を見送りながら、顔を見合わせて小さく笑い合った。 「葡萄酒ってさ、要はワインのことだよね」  自然と一緒に帰る流れになって、ぼくがそう言うと、 「ワインじゃなくて葡萄酒! その方が、なんか、響きがわくわくするだろ」  と、水嶋くんは主張した。  ぼくらはその放課後を境によく話をするようになった。  朝、登校すればおはようを言い合ったり、授業中わからないところがあれば相談したり、休み時間にちょっとした雑談をしたり、放課後は途中まで一緒に帰って、また明日、と手を振ったり。  水嶋くんと話すようになってから、クラスメートたちとも少しずつ話をするようになっていった。以前はぼくのことを遠巻きに、まるで腫物でも触るかのような態度で接してきていた奴らも、ぼくらが昨日見たテレビの話をしていれば「あ、俺もそれ見た」と話しに入ってきたり、それこそ単純に「おはよう」とか「またな」を言ってくれる。  きっと、今を生きるぼくと同い年の中学生からしたら、そういうことはとんでもないくらい平凡で、当たり前のことなのだろうけれど、ぼくにとってはなんだか足元がふわふわするくらい、嬉しいことだった。 「ねえ海」  虚空に向かって声をかけても、返事はない。  近頃海はぼくの前にあまり現れなくなった。ぼくが、自分無しでも生きて行けるのかを見届ける、なんて言っていたのに。まあでも、海だってぼくなんかの地味な生活をずっと見ているのもつまらないのだろう。 「……ぼく、お前の言う“清く正しい”生活、できているかな」  いくら呼びかけても、海はいっこうに姿を現さなかった。  けれどその晩ぼくは、不思議な経験をした。肌寒い冬の夜、その声はぼくに囁きかけてきた。 「宇宙船スプートニク2号に乗せられた犬の名前を、知っているか」  海の声だ。低くて落ち着いていて、でもどこか悲しそうな声。枕元に立って囁いている。 これは夢? 現実? そんなことすらよくわからない。  ただ、信じられないくらい瞼が重くて、金縛りにあっているみたいに体が全然動かなくて、そのくせ意識だけははっきりとしている。ぼくの体はその時まるで、海の声を聞くためだけにあるみたいだった。 「――ただ街中をさ迷っていただけの野良犬が、人間に捕まって、宇宙に飛び立ちたいなんていう浅ましい夢を実現させるための実験台にさせられた」  何? 何の話をしているの? 「――宇宙空間に、たった一匹で放り出されて、わけもわからないまま死んだ犬のことを、俺はたまに考えるんだ」  宇宙に、一匹の犬。  ぼくは頭の中でその様子を思い浮かべた。真っ暗闇の中、きらきら光る星々と、遠くに見える青い惑星。そんな中をさ迷う、孤独な犬。 「――今じゃ宇宙飛行士なんていう職業は、聞き馴染みがないほどわけのわからないものじゃなくなって――宇宙に人が飛び立つなんてことは当たり前みたいに受け入れられている。でも、人間のせいで死んだ犬の名前を知っている奴は滅多にいない」  確かに、ぼくも知らない。でも、海はどうして知っているんだろう? それに、一体何が言いたいんだろう?  瞼が開かないせいで顔なんて見えないのに、海が悲しそうな顔をしている、ということが、ぼくには何故かはっきりとわかった。 「――俺にはそういうことが、たまにものすごく辛く思えるんだ」  そう言うと、気配が遠ざかっていくのを感じた。しばらくすると徐々に体が動かせるようになってきた。そっと瞼を開く。わずかに開いたカーテンの隙間から、月明かりが差し込んで部屋の中をぼんやりと照らしている。 「……海?」  呼びかけてみても、やっぱり返事はなかった。
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