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母さんが亡くなったとき、俺は父さんの隣でその顔を見ていた。父さんは泣きそうな顔をしていたのに泣かなかった。だから俺も泣かないでいた。
お医者さんと看護師さんが手際よく作業を進める中、よくわからずに「母さん」と声を出した。父さんは何も言わなかった。母さんも、何も言わなかった。そう呼んだら、いつだって優しく答えてくれた。昨日もそう言ったら、どうしたの、とやわらかい声で答えてくれた。なのに、今は答えてくれない。
「母さん!!」
叫ぶとみんなが驚いて、そして優しい顔をした。「宙杜」と宥める父さんの声がして、何も言えなくなる。父さんが怒っていたからではない。それが、ひどく悲しそうだったからだ。悲しませたくなくて、これ以上泣きそうな父さんを見たくなくて、口をつぐんだ。
それからはあっという間で、親戚の人が来たり、お葬式の準備をしたりで忙しそうな父さんを見るだけだった。手伝えそうなことは小四の俺にはなく、ただ言われた通りにいた。みんなが優しい顔で俺を見た。「お父さん一人で大変ね」「これからはしっかりしなくちゃね」そんな周りの声を聞いていると、母さんが亡くなったことがどんどん遠いものになっていく気がした。
お葬式の日には、ハルの家族が来てくれた。普段とは違う黒いワンピースを着たハルを見て、なんだか変な感じだ、と思う。行き場が無さそうに俺が立っていると、そっとハルのお母さんが近づいて声をかけてくれた。それはこれまでの人の「大変そう」という優しい顔じゃなく、「何かあったらすぐに頼ってね」という優しい顔だった。ハルはすんとした顔をして、ハルのお母さんのそばにくっついていた。
火葬場に向かう車の中で、父さんはとてもつらそうな顔をしていた。葬式の最中よりもずっと悲しそうだった。
火葬場の一室で母さんが入った棺が入れられていくのを見て、親戚の人が鼻をすする音が響く。父さんは口を閉ざしたままじっと見つめていた。俺も同じようにした。
火葬を待つ間、ばあちゃんの手伝いでお茶を配ったり、お菓子を食べたりしていた。ハルのお母さんと目が合って、ちょいちょい、と手招きされた。近づくと「晴子がね」と話し出す。
「晴子が、お手洗いに行ったまま帰ってこないの。もしよければ探してきてくれる?」
「え、でも女子トイレまで入れないよ」
探すならハルのお母さんの役目だろうと思ったけれど、ハルのお母さんは俺の耳に内緒話をするように事情を話した。
それを聞いて俺は頷く。父さんにはお手洗いに行ってくる、とだけ伝えて部屋を出た。
トイレの近くを通ったがやっぱりハルはおらず、大きなホールに出る。何個かあるベンチの一つに、ちょこんと座るハルがいた。
「ハル」
そう声をかけると、びくっと身体を震わせてこちらを向く。ふにゃとした笑顔の後、泣きそうな顔をしてまたうつむいた。
「大丈夫? お母さん、心配してたよ」
そう言いながら近づいて、隣に座る。
「どうして」
弱々しい声がホールに響く。うつむきながら、ハルは言葉を紡ぐ。
「どうして、平気でいられるの」
そう言われて、カチンときた。「平気な訳じゃないよ」と少しだけ強い口調で言うと、ハルは顔をがばっと上げる。泣きそうな顔は、泣いている顔になっていた。
「だいじょ…」
心配していることを伝えようとすると、一瞬でハルの顔が見えなくなった。どうなったのかすぐにわからなかったけれど、左肩が重くて、耳にハルの髪の毛が触れていることがわかる。背中には手の感触があって、ハルに抱き締められていることがわかった。困惑していると、すすり泣く声が聞こえた。
「ハル?」
「私、やだよ。雪江さんにもう会えないのやだよ。もっと読み聞かせ聞きたかったよ。雪江さんの作ったオムライスだって大好きだった」
鼻をすすったり、息をしたり、途切れながらも言葉を続ける。
「やだ! やだやだやだ!! いなくなっちゃやだよぉ……死んじゃ、やだ……」
俺の背中に触れている手に力が入っている。駄々をこねる小さな子供みたいに叫ぶ。
それを聞いていると、蓋をしていた感情にノックされるみたいな気持ちになる。父さんは泣いていなかった。こんな風に駄々をこねたりしなかった。だから俺もそうした方がいいと思った。けれど、けれど。
「俺だって…」
言い始めれば泣きそうで、そこまで言って口を閉じた。ハルが俺の身体から手を離して、泣き腫らした顔でこちらを見る。
「ハルだって、嫌って思うよね?」
「俺は……」
目に涙がたまる。男の子なんだから泣いちゃダメ、そう誰かが言った声を思い出した。それと同時に、母さんの言葉も思い出す。『男の子だから強くいなきゃって思うだろうけど、つらいときはちゃんと、お母さんに言ってね』。ケンカして負けて泣きそうだった俺に、そう言ってくれた。
もう、つらいときにつらいと言える人も、俺にはいない。誰に言えばいい? 父さんに言えば、また悲しい顔をするかもしれない。ばあちゃんじいちゃんだって、悲しい顔をする。そしたら俺は、誰に、どうやって、つらいことを言えばいい?
「私ね、雪江さんがいなくなるのと同じくらい、ヒロが悲しそうなのがやだよ。お葬式のときからずっと、ヒロ、泣きもしなかった。それが、すごく、見ててつらかった」
「悲しそう?」
「うん。なんてことないみたいにしてるの。そんなの、悲しいよ。ヒロが泣かないから、私こんなに泣いてるの」
ハルの頬にぼろぼろと涙がこぼれるので、俺はポケットに入っていたハンカチをハルの目元に寄せる。ハルは若干怒ったようにハンカチを取り、涙を拭いながら続けた。
「私に優しくなんてしなくていいから、ヒロが泣きたいときは言ってね。私、隣にいるから」
「いなくても、俺、大丈夫だよ」
「大丈夫でも! 隣にいるから!!」
勢いよく言われて、その気持ちに圧倒されたのか、どこかでピンと張った糸が緩んだ。
そう、言われたかったのかもしれない。大丈夫、男だから、母さんがいなくてもやっていける、そう言わなきゃ、誰かが悲しんだり、困ってしまったりするから。それでも弱さはどこかに存在して、それを隠すように、押し込めるようにしていた。ハルは隣にいてくれる。優しい顔でも、悲しそうな顔でもなく、俺よりもずっと涙を流して、隣にいる。
「ハル」
「ん?」
「俺だって、やだよ。ずっと一緒にいたくて、でも、でも、母さん、死んじゃったから……父さんに、これ以上悲しい顔、してほしくなくて」
目蓋が熱くなって、涙がたまっていく。
「うん」
「母さんと、もう話せないの、嫌だ」
「私も嫌だよ」
「なんで母さんなんだよ……。なんで俺なんだよ……。やだよ、いなくなるなんて……」
ぽろ、と涙がこぼれる。泣くはずじゃなかった。けれど、止まらなかった。あのとき、病院で別れたとき、「行かないで」と言えたならこうならなかったのだろうか。いなくならないで、そう呻くように言って、ハルと一緒にたくさん泣いた。火葬が終わる時間が近づいてきて、ハルのお母さんが探しに来るまで、ずっと、悲しみを共有するように泣いていた。
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