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母さんが亡くなってから、父さんは職場の方でも色々と手続きがあったらしく、遅く帰ってくるようになった。朝起きると既に出勤していて、買っておいた菓子パンを食べて学校に行った。夜ごはんの時間にも帰ってこなくて、近くのスーパーで買った半額弁当を食べて、父さんが帰らないうちに寝ていた。
母さんの葬式の日以来、一緒に大泣きしたハルとは一緒にいるのがなんとなく気まずかった。ハルもこれまでより積極的に話しかけてこなくなって、話すことが少なくなっていった。
久しぶりに父さんが休みになった日、俺はいつもより浮かれていた。反対に、父さんは疲れていた。これまで以上に悲しそうな顔をしていた。仕事で疲れていたというのもあるだろう。でもそれ以上に、家に母さんがいないことが悲しかったのだと思う。仕事に行けば忙しさで紛らわすことのできた母さんの不在を、家にいることで余計に意識してしまう。外に出るのも大変そうで、俺は浮かれていたことを反省した。そんなときだった。
ピンポン、と家の前のインターフォンを鳴らす音が聞こえた。オートロックのインターフォンは宅配とかでよく鳴るが、家の前のインターフォンはこのマンションに住む人しか押さないから、あまり鳴ることがない。
「あ、晴子ちゃん? 今開けるね」
父さんはドアを開けに行く。ハルの名前を聞いて、俺もついて行く。
ドアを開けると、大きなエコバックを持ったハルが鼻息を鳴らしながら立っていた。
「お邪魔します!」
大きな声で言い、部屋に入っていく。いつもは一声断ってから入ってくるのに、今日は断定した言葉遣いだった。
俺と父さんを押しのけてリビングへ向かう。何か約束していたのか、と父さんがこちらを見るので、何も知らないと首を横に振った。リビングに戻ると、ハルはキッチンに立っていた。エコバックから取り出したのは卵のパックや、ボウル、菜箸や卵焼きサイズのフライパン、フライ返しなど、キッチン用具だった。
「今月はヒロとヒロのお父さんの誕生日があるから、お祝いの料理を作ります」
エプロンをつけながら言い、準備をしていく。父さんは驚いていたけれど、てきぱきと準備を進めるハルを見て無理に止めようとはしないようだった。
「嬉しいけど、料理、危なくない?」
「お母さんと練習したので、心配いりません」
そう、と父さんはぎこちなく笑って、ダイニングの椅子に腰かけた。俺はキッチンの端でハルの方を見つめる。
手は迷いなく動く。銀色のボウルに卵を割り、調味料を入れる。思い出したようにエコバックから最後の調味料らしい何かを取り出す。それを見て、俺と父さんは動きを止める。
カレー粉だった。ハルが、これから何を作ろうとしているのか、わかった。カレー粉の卵焼き。それは水谷家にとって、大切な思い出の料理だった。
水谷家のお弁当にはよく卵焼きが入っていた。でも、父さんと母さんは味の好みが違うようで、父さんは味が薄いと軽い文句を言っていた。俺はそう思わなかったから、父さんが難癖をつけていただけだと思う。それに怒った母さんは半ばやけになって、家にあったカレー粉を入れて卵焼きを作ったのだ。
「お父さん、カレー大好きでしょ。これなら文句言われない」
母さんはそう自慢げに話した。結局その日の卵焼きは父さんに気に入られ、それ以来カレー粉の卵焼きはお弁当の定番メニューになった。
俺も父さんも料理が得意ではなかったから、どんな風にカレー粉の卵焼きを作っているのか知らなかった。けど、ハルはわかるらしい。
フライパンに油をひいて熱していく。調味料を混ぜた卵をそそぎ込んでフライ返しでくるくると巻く。崩れもなく、きれいだった。三回ほど繰り返して、お皿に盛り付ける。
そのとき、またインターフォンが鳴る。父さんはその卵焼きに目を奪われつつ、受け答えをする。ドアを開けて入ってきたのは、ハルのお母さんだった。
「ちょっと、晴子! 何してるの!」
「あ! 待ってよ、今できたとこなのに」
すみません勝手に、とハルのお母さんは頭を下げる。大丈夫ですよ、と父さんは答えた。
「晴子ちゃんは、たぶん、僕たちを元気付けるためにしてくれたんだと思います。ね?」
父さんがハルの方を見て、ハルは白いお皿にのせた卵焼きを自慢げに見せびらかす。ハルのお母さんは呆れたような表情を浮かべたものの怒ってはいないようだった。
「雪江さんに教わったレシピだからって聞いてはいて、練習も手伝ってたんですが、まさか私に何も言わずにするとは思わなくて」
困ったように微笑みながら、ハルの頭に手を置く。ハルは少し怖がった素振りを見せたけど、それが優しいものであることがわかって、にこりと笑う。
「片付けはきちんとさせますので、もしよければ、召し上がっていただけませんか?」
はい、と父さんは皿を受け取った。
ハルとハルのお母さんが片付けをしている間、ダイニングテーブルに俺と父さんが向き合う。真ん中には白いお皿にのった卵焼き。母さんが亡くなってから、こんな風に机を囲んだことは初めてだった。もう一つの椅子には、誰も座られることがないことを実感する。
箸と小皿を用意して、一口サイズに切り分ける。口に運ぶ。甘い卵の味と、少しピリッとするカレーの風味がした。あたたかい料理が持つぬくもりが身体中に染み渡っていく。母さんの料理だった。母さんが、お弁当の残りと言って朝ごはんに出してくれた、あたたかい料理だ。
「どう?」
片付けが一段落したのか、ハルがテーブルの方に来ていたらしい。俺たちの顔を覗き込むように言った。
「おいしいよ、ね」
そう父さんに同意を求めた。母さんの料理そのものだと、父さんも思っただろう。この料理の味を知っているのは、俺以外に父さんしかいないんだから。
「父さん?」
父さんはゆっくり咀嚼していたが、顔を上げなかった。うつむいたまま、卵焼きを食べていた。ハルのお母さんも心配になったのか、キッチンからこちらに歩いてくる。
「ごめん、おいしくなかった?」
ハルが申し訳なさそうに言うと、首を横に振る。
「おいしい、おいしいよ」
ようやく出た言葉は震えていた。父さんは観念したように頭を上げる。瞳が潤んでいた。母さんや俺に向けるような、母さんが亡くなってからずっとしなくなっていた優しげな表情を浮かべていた。すっと涙がこぼれる。父さんが抱えていた何かが、崩れていくのがわかった。
「でも、泣いてるよ、ハルのお父さん」
「おいしい。おいしいから、こんな涙が出るんだよ」
腕で涙をぬぐう。父さんは、母さんがいなくなってから、ずっと泣かなかった。最期を看取ったときも、葬儀のとき棺に花を入れたときも、火葬場で見送るときも、骨を拾ったときも。
「雪江……」
ぽろぽろと涙をこぼす父さんを見て、俺は泣きそうになる。
「ありがとう、晴子ちゃん。もう食べられないと思っていたけど、雪江は晴子ちゃんに教えてたんだね」
頬を涙で濡らしながら、ハルの頭に手をやり、その髪を撫でる。
「うん。雪江さんのお見舞いに行ったときに教えてもらったの。私が入院中元気なさそうにしてたら、これを作ってあげてって」
うまく作れてよかった、とハルは笑った。
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