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 この日以来、水谷家にはルールが設けられた。なるべく食卓は一緒に囲むこと。朝ごはんは当番制で作り、あたたかい料理を食べること。父さんもゆっくりとあたたかい笑顔を取り戻していった。  母さんが亡くなったときのことを思い出すと、佐野にどれだけ助けられたかがわかる。俺と一緒になって泣いてくれたこと。元気がなかった父さんに笑顔をくれたこと。  あのときがなければ、俺は泣けずに強がって母さんの死とうまく向き合えなかったかもしれない。ルールもなく、朝ごはんを一緒に食べることもなかったかもしれない。  水族館か、ともらったチケットを見て考える。お礼じゃないけど、佐野が行きたいと言ってくれるなら、一緒に行きたいと思った。  朝、マンションの前で待っていると、佐野が出てくる姿が見えた。何か互いに渡したいものがあったり、部活のことを話さないといけないことがあると、直接家を訪ねることはせず、マンションの出入り口の近くで待つことが当たり前になっていた。 「おはよ」  声をかけると、「おはよう」と眠そうな声が返ってくる。朝日が眩しいのか、少しだけ目を伏せている。 「今日、ちょっと暑いよね」 「ほんとにな。衣替えは六月かぁ」  そう答えると、はあ、とため息が聞こえた。  隣に佐野がいると、他の友達がいるときとは違う感情がわき上がる。何を話せばいいのかと悩んでしまって、つい沈黙が長くなる。昔はもっと軽々しく話せていたことも、今はうまく話せない。他の友達とは何も考えず会話が出来るのに、佐野にだけは気を遣ってしまう。  どう切り出そうかと思って佐野を横目で見る。顔立ちはすっきりしていて、目立つ方ではない。他の女子生徒の少しだけ赤くなった唇や、整えられた眉毛を見てもどうも思わないのに、佐野の血色の薄い唇が視界に入るとつい目をそらしてしまう。  通学路の中にある二つの信号のうち、一つ目の信号に差し掛かる頃、口を開く。 「今週の日曜日」  チカチカ、と歩行者の信号は赤に変わる。信号の前で立ち止まり、え、と聞き返してくる。 「ヒマ?」 「まあ、何もないけど」  なぜか鼓動が早くなる。バッグに入れてある白い封筒を思い出しながら、佐野の方は見ずに続ける。 「水族館のチケットもらったんだけど」 「水族館って、遠足で行った?」 「そうそう。父さんに、佐野と一緒に行けばって」  一呼吸おいて、続ける。 「一緒に行かない?」  言っていて、まるでデートの約束を取り付けるみたいだと思う。中学生になってからはこんな風に誘ったことがなくて、やけにドキドキする。小学生のときは、ここに行きたい、一緒に行こう、とすぐに話せていたのに。  少しの沈黙の後、佐野の「うん」と小さな声が聞こえる。けれど、この声は肯定の返事ではない。佐野が何かを理解するとき、よく呟く「うん」だ。 「お金とかは? 払わなくてもいいの?」 「貰い物だから、大丈夫だよ」  正直、断ってほしくなかった。他の人と行く想像がつかなかった。佐野とならいいと思える、言葉にできない理由があった。 「じゃあ、行こうかな」  信号が青に変わり、佐野が歩き出す。俺も一歩を踏み出した。よかった、と心の中で安堵する。
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