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最初にやる基礎トレーニングを一通り終えただけで、だいぶ汗をかいてしまった。今日はだいぶ気温が高いらしい。水分補給をしようと、木陰に置いてある水筒まで歩いていく。部員のうちの何人かは荷物を置いている昇降口まで取りに行くのが面倒で、この木陰を利用して水筒を置いていた。
木陰に近づくと、誰かが既に休んでいるようだった。たぶん、同じ陸上部の吉川真理だ。長い足を体育座りで折りたたんでいる。水筒をぐいっと勢いよく倒して水分を取り込んでいく。飲み終えて水筒から口を離すと、こちらに気付いたらしい。
「宙杜も休憩?」
吉川にそう聞かれて、「休憩」と答える。自分の水筒を取る。木陰はほどよく涼しかった。風が通ると木々が揺れて、カサカサと音がした。
「足の状態良さそうだね」
校庭の方を見ながら吉川は聞いてきた。
「まあ、もうちょっとで大会だし」
「大会のこと意識してんのとか、宙杜くらいじゃない」
「そんなことないだろ。三年間みんなやってきたんだから」
「たった三年だよ」
くすっと吉川は自嘲するように笑った。俺だって、全員が全員最後の大会に向けてやってきているとは思っていない。けれど、少なくとも吉川は真面目に取り組んでいると思っていたので、内心驚いた。
「あ、孝太郎コケた」
独り言みたいに吉川が言うので、俺も篠崎がどこにいるか探した。遠くの方で練習していた篠崎は、おどけるように笑っていた。
「よく見えたね」
「嫌でも見えるでしょ、あんな大ゲサなやつ」
ちらりと吉川の方を伺う。いつもはあまり変わらない身長で頭のてっぺんを見ることはない。今は吉川が座っているので、目線などがどこに向いているかはわからない代わりに、後ろでお団子の髪型にしているのはわかった。
「宙杜だって、晴子はすぐわかるでしょ」
こちらに顔を向けられ、黒い瞳で見上げられた。不意打ちで振り返られ、ドキッとする。目をそらし、校庭を向くと一番に佐野の姿が目に入る。短距離の後輩と何かを話している。同じ種目同士話が通じるのだろうか、少し笑っているように見える。その拍子に、持っていたストップウォッチを落とす。
「あ」
後輩がストップウォッチを拾い上げ、佐野に渡す。佐野は申し訳なさそうに笑いながら受け取った。
「やっぱり」
吉川が呟く。見ていたから声を出したんだろう、と言わんばかりの小馬鹿にした言い方だった。
水筒を開けて水を喉に流し込む。やわらかく冷たい水が、身体をすっと落ち着かせていく。
「晴子さ、部長頑張ってるよね」
意外な言葉を聞いて、思わず水筒を飲む手を止めた。口を離し、吉川を見る。
「正直、部長になったときはなんでって思ったけど、部活の様子見てたら、晴子でよかったって思うこと、結構あるんだ」
「そうなんだ」
「うん。きっと私が部長だったら、もっと衝突して、ギスギスしてたと思う」
吉川はわりとはっきり言うタイプだから、そうなってもおかしくないかもしれない。佐野は良くも悪くも波風を立てないタイプで、後輩など関係なくどんな部員の意見も受け入れようとする。話しやすいという雰囲気とはまた別の、いろんな意見を聞けるイメージがある。
「それはそれできっちりしてていいと思うけど」
そうフォローすると「気遣ってんのバレバレ」と笑った。吉川は立ち上がり、水筒を地面に置く。「まぁだから」とキッと校庭を睨むように見つめる。
「ちょっと凛たちのことは心配」
三年の短距離女子、柴山たちが最近片付けに参加しないことだろうか、とすぐに見当がついた。前に佐野が掛け合って相談の席を設け、顧問の許可も取って落ち着いたと思っていた。
「あれは終わったことじゃねぇの?」
「私だって、終わったことだと思ってたよ」
「なんかあったのか?」
一旦息をついてから、こちらを向いて真剣な顔で口を開く。
「凛たちと同じ塾の友達がさ、早退した凛たちがコンビニにいたの見たって言うんだよ」
「え、それって」
「その子はもう部活引退してるんだけど、でも塾の授業前にいたって聞いてさ」
嫌な予感がした。吉川の声色は明らかにさっきとは違う。冷たい、非難するような声だ。
「まあ、それだけなんだけど」
じゃ、と手を挙げて木陰から去っていく。明るい日差しが吉川を照らす。
なんだかあまり良くないことだ。これ以上変にならないことを祈りながら、また水筒に口をつけた。
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