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 水族館に行く約束の日はすぐに来た。待ち合わせ場所は駅にしようと事前に決めていた。家が隣同士なのにそうするのは変かもしれないが、家から一緒に行くと何となくお出かけという気分にならないような気がして、水族館の最寄駅につながる路線がある駅で待ち合わせた。  ラフな白いTシャツとジーンズという簡単な格好をしてリビングに行くと、職場に出る直前の父さんに「かっこいいぞ」とにやけられた。うるさい、と答えておいた。  駅まで歩くと、駅前のモニュメントの近くに佐野を見つける。一瞬誰だかわからなかった。小学生のときとは少し違う、大人っぽい私服だったからだ。  薄い水色のシャツワンピースに、スニーカーを履いている。何より驚いたのが、いつも一つに結んでいる髪型を下ろしていたことだった。キラキラと太陽を反射する黒髪に、気を取られる。 「ごめん、遅くなって」 「いや、私が早く来すぎただけ」  潤いを帯びた唇にドキリとする。小さな変化なのに、顔をそらしてしまいそうになる。けれどそんなことをしてしまえば自分の心の内が伝わってしまいそうで、「行こう」と言って歩き出した。佐野もついてきてくれる。  一緒に出かけるとなって、少し緊張していた。実際に普段とは違う佐野を目の前にしてみて、予想よりひどく混乱している自分がいる。いつも通りでいればいいと思っていたのに、いつも通りはどこにもなかった。  電車はすぐに来た。日曜の昼間だからか、車内はそれなりに混んでいた。座席は家族連れやカップルで埋まっていたため、扉の近くで立つことにする。扉の両端に立って、お互いに会話することもなく窓の外に流れる風景を見ていた。  何かを話そうとしなくてもいいのが、心地いい。友達といるときは、気を遣って話題を振ることが多い。それで喜んでくれる友達が多いし、そうやって友達を作ってきた。けれど、佐野とは話さなくてもいいという安心感がある。佐野との付き合いは昔からだし、母さんが亡くなる前までは俺が積極的に話す方じゃなかったことも佐野は知っている。だから佐野も、無理に話しかけてくることはないし、俺もわざわざ話題を探してまで話さなかった。そんな空間がなんだか懐かしい。  流れていく風景を眺めていると、だんだん住宅街が増え、畑や田んぼが増えていく。佐野はじっと外の様子を眺めていた。窓から差す光が佐野の顔にかかり、瞳に吸い込まれていく。 ――『お前さ、部長と付き合わねぇの?』  篠崎に言われた言葉を思い出す。付き合わないのかと何回も聞かれて、その度に答えを濁した。佐野の方がどう思っているか知らないし、好きとか、付き合いたいとか、そういう気持ちはあまり外に出したくなかった。  今、目の前にいる佐野に好きだと言っても、きっと困るだけだ。ただの幼なじみだと思っているだろうし、そこに恋愛的な感情はないだろう。部活終わりに一緒に帰ろうと言うと面倒そうな顔をするし、嫌われていることさえあるんじゃないかとも思う。  ずっと一緒にいて、お互いを知りすぎて、気持ちを察することが出来てしまう。簡単には言えない。言ってしまえば、中学に入学した頃のように、また離れてしまう気がした。 「スポーツ推薦ですか?」  怪我をする前、夏休み頃のことだ。学校で呼び出しをくらい、何かしたかと思いながら職員室に行った。そこにはスーツを着た人と、担任の先生と、顧問の上山先生がいた。その場で伝えられたのは、ここから少し遠いところにある私立高校のスポーツ推薦の話だった。 「前の中総体の記録を見て、検討している候補として名が挙がったらしい」  上山先生が簡単に説明してくれた。 「これからの結果にもよるが、君の成績を高校側が高く評価していてね。推薦の候補に挙がっていることを伝えておきたかったんだ」  スーツを着た、優しげなおじさんがゆっくりと言った。ありがとうございます、と答えておいた。 「推薦で入れば授業料も多少考慮されるし、寮生活になる。だから早いうちに言っておきたくてね。今のところ、推薦で入るという選択肢は考えていたかい?」 「いえ、全く考えていませんでした」 「そうか。じゃあ帰って親御さんにも話してもらえると嬉しいな。そして考えてみて」  にっこりと笑顔を見せるその人に、ぎこちなく会釈を返したことは覚えている。  陸上はなんとなく始めたものだった。だからこんなことになるとは予想もしていなかった。父さんに話したら、費用のことは気にせず考えてみるといいよ、と言われた。俺は普通に、近くの公立高校に進むと思っていた。当たり前に、佐野と同じ高校に入るんだろうとも。その選択肢ではない道を提示されて、違うところに通うという選択肢があることに気付いた。  ずっと一緒にはいられない。そのことを知って、ひどく怖くなった。  俺は佐野の存在を家族と同じか、それ以上の存在だと思っていたのだ。母さんがいなくなってからも、いろんな人に同情されたり、優しい顔をされた。その度に普通じゃないことを思い知らされた。運動会のときも、学芸会のときも、授業参観のときも、親はいなかった。そのことを気にしていないのに、他の人が気にしているのが目に入って、もやもやしたこともある。  だけど、運動会では佐野家に混ぜてもらってご飯を食べたし、学芸会では佐野のお母さんとお父さんが俺の分まで写真を撮ってくれて、父さんに見せてくれた。可哀想と言われたって、俺には父さんがいて、佐野がいると思えた。葬式で一緒に泣いてくれたことや、卵焼きを作ってくれたことを思い出すと、母さんがいなくてもやっていける、頑張ろうと思えたのだ。  寮生活になったら気軽に話しかけられないし、夜中にベランダで話すこともなく、一緒に帰ることも出来なくなる。それが嫌だと思った。その気持ちが好きかどうかは別として、嫌だと思うのは、一緒にいたいとどこかで思っているからだろう。
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