1人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
1
ピッ、と笛の音がした。その音と同時に足に力を入れて蹴り上げ、上体を起こしていく。風を感じて、走っていることがわかる。どんな動きなのかはわからない。自分の足が意志とは別に動いているように思える。このレーンの上で、どこからどこまでは走っていると言えるのかと、ふと疑問に思った。振動する視界と、規則的な息遣いと、風を切る音と、その風がジャージに当たる感触。それらを感じている間に、いつの間にかゴールを過ぎてスピードを徐々に落としていく。
タイムを知らせる声を片耳で聞きつつ、息を整える。遅すぎず、速すぎず、いつも通りのタイムだ。もう一本走るために、スタート地点に戻ろうと歩き出す。
「佐野、遅くなったんじゃね?」
タイムを記録していたらしい水谷がからかうように話しかけてくる。
「いつも通りだよ」
無視するのも面倒で、とりあえず当たり障りのない返答をした。
「このタイムなら俺が短距離やった方がいいかもな」
「男の水谷と比べないでよ。次来るよ」
やべ、と声を漏らしながら、水谷は向き直る。私も歩く足が止まっていたので、再び歩き出す。
桜も散り終えた放課後の校庭には、部活中の生徒が多くいた。野球部の練習を終えた後の挨拶が聞こえる。その声を聞いていると、さっき走ったレーンを駆け抜けていく後輩から、風を感じた。もう一回走っても、きっとタイムは変わらない。本気で陸上をやっているわけではなかった。部活に入ったのは一年のときに強制されたからだ。百メートル走を小学校の陸上記録会でしていたので、陸上部に入った。記録を意識しているのは、この部ではごく少数だろう。
スタート地点に戻り、身体の調子を整える。今日最後の走り。私は才能があるわけじゃない。速く走ろうとするのは、部活の一員としてだ。記録を求めようと一生懸命にはなれなかった。
笛が鳴って、後ろの足が地面から離れる。速くならなくたって、走り続ける。走っているときは、気が楽だ。人と話したり、勉強したりするときとは違って、速く走るという一点に考えが集中するから。一つのことしか考えなくていい走る時間が、わりと好きだ。
顧問の上山先生に報告し、昇降口付近で挨拶をして部活は終了する。それぞれ仲がいい友達と帰っていく。一年生はまだぎこちなくて、とりあえずは帰る方向が同じ子と一緒に帰るみたいだ。私も早く帰ろうと通学カバンに荷物を入れる。
「佐野、今日帰りヒマ?」
水谷に声をかけられて、手を止める。今日はお母さんが珍しく早上がりだから、家事をする必要はない。
「暇だけど……、何?」
あんまりいい予感がしなくて、一応何をするのか聞いておく。
「買い物頼まれててさ、手伝ってよ」
中学校近くで買い物と言えばコンビニしかない。少し歩いたところにあるスーパーに寄りたいということらしい。それくらい一人で行けるだろうとも思うが、水谷は足の怪我が治りかけで、あまり負担をかけたくないのだろう。
「いいよ」
そう返事をすると、水谷と仲の良い篠崎くんが絡んでくる。
「夫婦みたいだな~。俺が買い物手伝ってやってもいいんだぜ?」
「お前は帰り道別方向だろ」
「そうだけどよ。まあ、せいぜい仲良くな~」
篠崎くんは笑って水谷の肩を叩き、同じ方向の友達の輪の中に入っていく。私と同じ方向に帰る人は少なく、陸上部だと水谷だけだった。ほとんどの陸上部員が帰ってしまった昇降口で、水谷と目が合う。水谷はすぐに視線をそらして、私もカバンを背負った。
「いつものスーパーに行けばいいの?」
「そうそう。ティッシュとトイレットペーパーを一緒に買うとか、手が足りないっての」
水谷はぶつくさ言いながら歩き出す。
「あ、宙杜、晴子ちゃん、バイバーイ」
女子テニス部の子が昇降口を出た水谷と私に声をかける。水谷は「じゃーな」と言って、私もバイバイ、と返す。私はその子をあまり知らなくて、どんな名前だっけ、と思い出そうとする。名前の呼び方を聞くと、水谷と仲が良いのだろう。
「水谷くん、晴子ちゃん、またね」
その後ろにいた女の子も続けて挨拶してきた。この子は今年初めて同じクラスになった、確か、今永明奈ちゃんだっただろうか。同じように挨拶を返す。どちらも水谷を先に呼んでいて、友達が多いなぁと思う。
「そういや、来週席替えするらしいよ」
水谷は思い出したように言った。
「そうなんだ。前の方が視力的にもありがたいなぁ」
「え、前は絶対嫌なんだけど。怒られんじゃん」
「寝なかったら怒られないよ」
「寝ないことがそもそもできないんだよなぁ」
「そんなに寝てるの? 中学になってから同じクラスになってないから、水谷の授業態度知らないけど」
寝てるっていうかなぁ、と曖昧に濁しながら、水谷は歩いて行く。今年の冬はだいぶ歩きづらそうにしていたから、良くなってきていて安心する。松葉杖をつかなくても歩けるようになったみたいだ。
「足良くなったね」
「まぁ、リハビリしてきたしな」
「そういえば、なんで陸上部にしたの?」
「なんでって、何が?」
「小学校のときはサッカーしてたでしょ。スポ少の先輩もサッカー部にいたのに、どうして陸上部に入ったのかなって」
「サッカー、苦手なんだよね」
「そんなわけないじゃん、昼休みに校庭でやってるときは普通にできてたし」
「男子の方見てたんだ、へぇ~」
気になる人がいるからか、と言わんばかりの含みのある言い方をされて、ため息が出る。そういう意味で言ったわけではない。
「協調性が俺にはないと思うんだよね。だから個人競技にした」
そんなわけない。私よりもはるかに交友関係は広いし、協調性がなければそもそも友だちだって作れないはずだ。
「ないはずないと思うけどなぁ」
「じゃあ今からサッカー部に転部?」
「それは、副部長がしたらダメでしょ」
「なら陸上部にいるよ。佐野がいると気楽でいいもん」
その発言に喜んでいいのか、怒るべきなのかわからなかった。じゃあいてください、と返事をしたら、水谷はカラカラと笑った。
家に帰ると、シチューの香りがした。靴を脱いで廊下を歩く。おばあちゃんの部屋に明かりがついていないから、リビングにいるんだろう。リビングにつながるドアを開く。
「ただいま」
そう声をかけると、リビングのソファでテレビを見ていたおばあちゃんが振り返り、おかえり、と優しく返してくれる。キッチンにいたお母さんもこちらに気付く。
「おかえりなさい、遅かったね」
お母さんは、私が小さい頃から使い続けている黄色のエプロンをつけていた。お母さんがバイトで遅くなる日はいつもご飯を私が作るので、エプロンを見る機会は前より減った。なんだかほっとする。
「水谷くんに買い物手伝ってって言われて、それに付き合ってたらこんな時間になってた」
「そうだったの。足はもう良くなったの?」
「だいぶ。手洗ってくるね」
リビングと続いている自分の部屋にカバンを置く。洗面所ま歩き、いつものように手を洗う。前まで水道水がとても冷たかったのに、今はそうでもない。暖かくなってきているなぁと思う。
石鹸を泡立てているとき、ふと鏡に映る自分と目が合う。私が誰かを見ているように、誰かもこの私の顔を見ている。おばあちゃんは可愛いというけれど、自分の顔はあまり好きになれない。少しぐらいメイクとかができれば、自分の顔を好きだと思えるようになるのだろうか。
洗う手が止まっていたことに気付き、手を動かす。固形石鹸だと泡が対して大きくならない。それでも洗って、また手を水にさらす。手をタオルで拭いていると、前髪が邪魔だなと思いまだ少し濡れた手で触る。湿り気を帯びた髪が鏡に映って、さっきまで濡れていなかった前髪を水谷が見ていたのだと思うと、なんだか恥ずかしいような気持ちになった。
最初のコメントを投稿しよう!