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 部活終わり、制服を入れた袋を忘れたことに気付いた。わざわざ階段を上がって教室まで戻ると、残っている人はいなかった。いつも通りロッカーに置いたはずと思って確認したが、なかった。どこやったかなぁと自分の席まで歩くと、机の横にかかっていた。  袋を机のフックから外す。そのとき、廊下の方で足音が聞こえた。 「あれ、まだ水谷くん残ってたんだ」  教室の出入り口のそばから声をかけられ、そちらを振り返る。クラスメイトの今永だった。肩にかからないくらいの髪の毛が揺れる。 「もしかして、水谷くんも忘れ物?」  そう言いながら、教室のドアを閉める。ずっと開いていたのにドアを閉めるなんて律儀だなぁと思いながら、「まぁ」と答える。 「今永もなんか忘れたの?」  一応会話を続けようと、そう質問する。 「うん、まぁ、そうかな」  なんだかぎこちない返事をしながら、自分の席の近くに歩く。ずっといるのも変かなと思い、帰ろうと歩き出した。 「じゃあ、また明日」 「あ、うん」  教室のドア付近まで歩くと「待って!」と呼び止められる。 「急いでる?」 「いや、別に」 「そっか。……あの」  こちらを見つめた瞳はすっとそらされる。一瞬の沈黙が、いつも通りじゃないことに気付く。 「水谷くんって、好きな人いるの?」 「え?」  意外な方向の質問に、素で聞き返してしまう。好きな人。一瞬よぎった顔を認識している途中で、今永は続ける。 「あ、えっと……、そういうことじゃなくて。いや、そういうことっていうか」  しどろもどろになりながら、今永は言葉を紡ぐ。そらされていた目はこちらに向き直った。 「私、水谷くんが好きなんだ」  一息で言われたその言葉が、最初よくわからなかった。  考えられなくなった頭が、理性を取り戻し働いていく。それでも言葉が出なかった。 「返事はいらないから、うん、またね」  ガタ、と机に少しだけぶつかりながら、もう一つの教室のドアへ逃げるように走っていった。追いかけることもできず、その場に立ち尽くす。  何も、知らなかった。今永がそうやって俺を見ていたことも、誰かに好意を向けられたときの感情も。自分のことばかり考えて、結局周りのことは見えていない。返事はいらないと言われても、そうやって言われた以上何か返事がいるのではないか。  よくわからないままドアを開けて廊下に出る。教室の正面は階段があり、その横には予備教室がある。その階段と予備教室の間にある大きめな柱の近くに、手が見えた。床についたその手を見て、誰か具合が悪いヤツでもいるんだろうか、と近づいた。  その間に、そいつはすっと顔を柱から出した。見慣れた顔だった。すぐにその顔は引っ込む。 「何してんの」  なぜか柱の影に隠れている佐野に向かって声をかける。反応はない。柱の裏側に回ると、佐野が体育座りで隠れていた。俺の影の中に佐野の身体はすっぽりと収まっている。何も言わず、ただじっとしている。 「無視とかひでー」  そうからかうように言いながら、立ち上がれるように手を差しのべた。佐野は顔を上げて俺を見る。その顔がいつもよりも厳しいように見えた。俺の顔から手に目線を移し、それを無視するように一人で立ち上がろうとする。だけど思ったよりも立ち上がるのが大変だったのか、ぐらりとバランスを崩して尻餅をつく。 「大丈夫か? ほら」  再び差し出すと、ありがとう、と聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟き、俺の手を掴んで立ち上がった。床についていたところを軽く払う動作をする。 「忘れ物に気付いて戻ってきたんだけど、なんか教室から声聞こえたから」 「盗み聞きしてたってこと?」 「内容までは聞いてないよ。……すぐ隠れたし」  なぜ隠れたのかはわからないが、聞かれていないということに安堵している自分がいた。 「水谷はもう帰るんでしょ」  じゃあね、とすたすた教室まで歩き出す。その声はどこか突き放すような言い方に聞こえた。  あの帰り道の会話以来、あまり話していなかった。話をしたかったし、このまま過ごすのは嫌だと思った。  佐野は教室のドアの近くで立ち止まり、こちらを振り返らずに「帰んないの」と言った。「せっかくだから一緒に帰ろうかな」と普段通りの感じで答える。  しばらくの沈黙があった。何と言えばこの前のことを話せるだろうか。いつものように、一緒に帰れるようになるだろうか。そんなことを考えていると、佐野は急に歩き出し、教室の中へ入っていった。その後をついて教室のドア付近にいると、机の中を探りながら佐野は言う。 「先帰っててよ、ちょっと残りたいの」  こちらに目を合わせようとしない。声もいつものような喋りではなく、少し泳いでいた。 「忘れ物しただけじゃねぇの?」 「そう、だけど。お手洗いに行ってから帰るから」 「じゃあ下で待ってる」  明らかに避けようとしているのがわかって、俺は食い下がる。この機会を逃したくなかった。中学校に上がってほとんど話さなくなったとき、俺はやっぱり寂しかった。あのときみたいになりたくない。いつも気にしないふりをしていたあのときに。 「そういうことじゃ、なくて」  少し動揺したような返事だった。暗くなった教室では表情が見えない。それでも机の中にいれた佐野の左手は所在なさげに動いていた。その返事と反応を見て、察する。  静かになった教室で、すっと瞬きをする。バカみたいだ、と心の中で呟く。  俺にとって、また話せなくなることは怖いことだ。いろんなときに支えてくれた佐野を、今度は俺が支えたいとも思っていた。けれど佐野は違う。佐野にとっては家が隣同士なだけの、ただの友達なのかもしれない。また話せなくなったって、どうでもいいのかもしれない。俺だけが、こんなに焦っている。佐野はそれが迷惑で、嫌だと思っているかもしれないのに。 「わかったよ」  もういいや、と思う。同じ気持ちかもと一瞬でも期待した俺が間違っていた。傷つけるなら、嫌がられるくらいなら、もういい。 「先帰るわ」  くるりと教室に背を向ける。歩き出す直前、言葉がこぼれ落ちた。 「ごめん」  こうやって、もう一緒に帰ることもなくなるんだろうか。中学一年生のときみたいに、なんとなく話さずに、互いがいることだけは知りながら過ごしていく。自分の気持ちを伝えて相手を傷つけるくらいなら、こんな気持ちなくした方がいいんだ。少しだけ歩いて、階段の目の前でぴた、と足を止めた。  ここは違う階段なのに、あの日を思い出す。俺が副部長に、佐野が部長に決まった日だ。こうやって、佐野は階段の下で立っている俺を見ていた。あのときの俺が、今の俺を見ている。ずっと変わらない。どうしてもあの日の気持ちから離れられない。理由なんてない。ただあの日、日差しに照らされながら立っていた佐野のことが。  ガタンッ、と後ろで音がした。教室からだった。身体を反転させて、早足で歩き出す。 「佐野?」  教室に入ると佐野の姿が見えなかった。どうしたのかと思い机の方を見ると、少しだけ定位置より曲がっている。目線を下に向けると、倒れているような様子の佐野がいた。さっと血の気が引いて、怖くなりながらも駆け寄る。 「おい、大丈夫か?」  机の足に自分の足を引っかけて転んだようだった。手をついているので頭は打っていないみたいだが、手足を捻ってしまったかはわからない。何も答えがないことが心配で、うつむいた顔を覗き込もうとした。 「さっき、何話してたの」  いつもより低く、冷たい声だった。 「え?」 「明奈ちゃん、泣きながら出てきた、ように見えた」  急に今永の名前が出てきて、混乱する。さっき、会話を聞いていなかったと言っていた。だけど、なんとなく内容を察していたということだろう。泣いていたようには見えなかったけれど、佐野にはそう見えたらしい。  そこまで考えて、佐野が聞きたいことに気付く。篠崎がからかうように言ったこと。もしかしたら噂が流れていて、それを佐野は聞いていたのかもしれない。 「ごめん」  いつもの声に戻って佐野が謝る。何の謝罪かはわからなかった。けれど、俺は言っておきたかった。さっき、何を話していたのか。 「好きだって言われた」  そう言っても、佐野は手をついてうつむいたまま動かない。 「返事はいらないって言われたけど」  少しだけ、佐野の髪が揺れる。頭が動いたようだった。佐野はすっと立ち上がる。怪我はないようだった。床に落ちた忘れ物らしきノートを拾い上げ、俺を無視するように歩き出す。 「佐野?」  かけた声も気にせず、佐野は早足で歩いていく。俺も立ち上がってその姿を追いかける。 「佐野!」  手すりを触りながら、階段を下りる佐野に向かって呼びかける。大きな声が階段に響いた。佐野の足は止まらない。どうすれば、あの足を止められるんだろう。 「……ハル!」  踊り場に差し掛かった佐野はピタリと足を止めた。その呼び方は小学生以来だ。足を止めた隙に俺は階段を駆け下りる。踊り場の真ん中で、佐野の背中を見ながら言う。 「なぁ、大丈夫か?」 「好きだって、言われたんでしょ」 「うん」 「なら、なんで一緒に帰ろうとするの? 見られたらどうしようとか、思うでしょ、普通」  その言葉で佐野が何を考えているか、察しがついた。佐野は今永と俺に気を遣っていたようだった。そこには今、俺と話したくないという理由も加わっているんだと思う。今永に言われたことは確かに俺が考えないといけないことだ。それに気を遣って佐野が俺に話しかけられなくなるのは違うような気がした。 「それとこれは、違うんじゃねぇの」 「違わないよ!」  反射のようにこちらに振り向きながら佐野は勢いよく言う。まっすぐにこちらを見据える。 「俺は、佐野と話がしたいんだよ」  だからっ、と佐野は何かに抵抗するように声を出す。 「私、だって……。もうわかんないよ」  これまで抑え込めていたいろんな感情を吐き出すように呟いた。 「わからない?」 「わかんない、わかんないもんはわかんないの」  俺だって、と言いかけてから、真剣すぎる感じになりたくなくて、おどけるように「なんだ、それ」と少しだけ笑って見せる。佐野は息を吐ききって、少しだけ冷静になったようだった。 「返事はいらないって言われたって、今私と一緒に帰っていたら、そうじゃなくても、勘違いされちゃうかもしれないんだよ?」 「それが嫌ってこと?」  佐野の目が泳ぐ。答えに迷う瞳を俺はじっと見ていた。踊り場は暗く、瞳に光は感じられない。 「そんなの、ずるいよ」  答えではなく、その問いかけ自体を非難する言い方だった。佐野は、答えを避けている。  答えを出してくれれば俺はすぐにでもその手を掴むのに。そう思って、あぁ、俺が答えを出せばいいんだ、と気付く。 「俺は、佐野のこと」 「明奈ちゃん……?」  俺の言葉を遮るように、佐野は言う。下の階の廊下を見つめていた。俺もそちらを見ると、階段で下りたところの廊下に、手すりを掴んでこちらを見ている今永がいた。俺は口を閉ざす。 「あ、ごめん……。忘れ物を取りに来たのに、そのことすっかり忘れちゃってて、ちょっと待ってから来たんだけど」  ごめんね、と切なく続けて、今永は居心地悪そうに立ち止まっている。動けなかった。どうすればいいのか、何を言えばいいのかわからなくなる。今永がすっと目をそらした。  永遠にも感じられたその一瞬は、佐野の足音で動き出す。階段を駆け下りて、今永に優しく話しかける。 「私は、水谷と友達だけど」  佐野は立ち止まり、今永と目を合わせる。 「好きとか、そういうのじゃないよ」  小さい声なのに、やけに頭に響いた。これ以上ないくらいの切ない笑顔で、佐野は「じゃあね」と言い残して階段を駆け下りていった。  階段に取り残された今永とふと目が合う。 「二人の邪魔になっちゃったかな」  軽く笑って、今永は階段を上る。 「そんなことねぇよ」  それしか言えなくて「やさしいね」とやわらかい返答があった。  踊り場ですれ違うとき、今永は俺の耳に届くくらいの声で呟いた。 「ごめんね」  何に対して謝られたのかわからなかった。今永はすぐに後の言葉を続けた。 「やっぱり、返事待ってる」  俺は今永の方を向く。目を合わせる。大きく丸い瞳が、こちらを見ていた。ふっと笑顔になったかと思ったら、すぐにそらされて今永はまた階段を上っていった。
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