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応援席から階段でフィールドの裏手に出る。むき出しになったコンクリートの柱や大きな換気扇が、静かな印象で佇んでいるのを横目に、水谷の姿を探した。あの後、ちょっと席を外すからといって抜け出した水谷が心配になって、追いかけてしまった。
いくつか柱を過ぎると、水飲み場があった。三つの蛇口の一つから水を出し、タオルを濡らしている姿が目に入る。
「水谷」
どう声をかけるべきか迷って、結局、名前を呼ぶ。声に気づいて、水谷はこちらを振り向く。「何」と聞かれて、何を話したかったのか一瞬忘れてしまったが、すぐに思い出す。
「足、痛くない?」
水谷は蛇口を閉めて、タオルの水気を切るために絞る。
「痛くねーよ」
タオルから水滴が落ちていく。そっか、と私はひとまず安心する。
「一位、おめでとう」
自己ベスト更新も、と付け加える。さっきみんなの輪の中にいたときは笑っていたのに、今はその笑顔もない。水が落ちなくなるくらいタオルを絞り、こちらを向く。
「これでたぶん、私立の推薦、もらえると思う」
前に少し話したことだろうか。続きを促すように黙って水谷を見た。
「一位になった。これで、これで……」
がくん、と水谷が崩れ落ちる。タオルを持った左手は水飲み場に置いたまま、うずくまる。
「水谷!?」
私は駆け出す。近くにいき、水谷の身体に触れようとして、一回ためらってから、背中にそっと手をのせた。
水谷の顔を覗き込むようにして様子を伺う。髪の毛で表情はよくわからないけれど、少し具合が悪そうだ。目を伏せて、息が荒くなっている。背中に置いた手から、熱くなった体温を感じた。
水谷の右手は怪我をしていた足を掴んでいた。足が痛むのかもしれない。
「待ってて、今先生と医務室の人呼んでくる」
ぽんぽん、と背中をさすり、離して立ち上がろうとする。体勢を支えるため水飲み場に置かれた水谷の左手が、滑り落ち、私の腕を掴む。タオルが床に落ちる。私の手首を強く掴んで、顔を上げないまま、水谷は私を止める。
「早く処置しないと」
その強さに戸惑いながらも、そう中腰になって宥める。私は、水谷の手を離そうとした。
「行くなよ」
聞いたこともないような声で、水谷は呟いた。こんなに弱々しい声を聞いたことがなかった。
「でも」
「聞いてない、まだ」
「そんなの今は」
「そんなの、じゃない」
きゅっ、と私の手首を離さないように掴んでいる。熱いくらいの手の温度を感じて、水谷がさっきまで無理をしていたことを知る。
いつだって、我慢強かった。雪江さんが亡くなったときだって、私と話すまで泣くのを我慢していた。それはたぶん彼なりの気遣いで、さっきみんなに声をかけられていたときも、その雰囲気を崩したくなかったのだろう。
「水谷」
名前を呼ぶ。水谷はこちらを向く。少しだけ潤んだ瞳が、先ほどの走りを思い出させる。青い直線を描く走り。瞳に写る私の顔。右手首を掴む水谷の左手を、私の左手で包み込む。
「待ってて、すぐ戻ってくる」
そう目を見ながら伝える。一瞬の静寂の後、水谷の手の力が緩む。私は右手で少しだけ肩に触れて、走り出す。応援席にいる上山先生を呼んで、競技場の室内にある医務室の人に言いに行く。さっきまでトラックを走っていたこの足は、私のためではなく、水谷のために動き出す。
どうすればいいのか、わからないときがある。水谷から離れない方がよかったのかもしれない。あの場で伝えればいい思いもあったはずだ。だけど私は、離れることを選んだ。言わないことを選んだ。すべてがうまく行くことのないこの世界で、ずっと水谷と一緒にいることはできない。水谷が私立に行っても、私はついていくことはできない。
なんだか泣きそうになる。私は、こんなにも、水谷のことが。
離れることが嫌だ。一緒に話すことができないのも嫌だ。優しい水谷が、いつまでも隣にいてくれればいい。
だけど、こんな思いを持つ自分が嫌だ。離れたくないと思うことが嫌で、思いを伝えて関係が壊れるのも嫌で、自分のことばかり考えている自分が嫌になる。そんな自分の素直な気持ちを抑え込むように、考えないようにずっと走っていたのに。そうやって走ってきたこの足は、自分の気持ちのために、今、動いている。
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