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 ようやく終わって、私は机の上で一息ついた。水谷は余った画鋲を箱にいれ、剥がした掲示物を整えていた。 「ありがとう、助かった」  一人だと結構大変だったかも、と素直に言うと水谷は「ならよかった」と答えてくれる。その答え方はいつもとは違い、ぎこちない笑い方だった。何かを隠すような言い方に、自分の無神経さを自覚する。  机から降りて上履きを履く。もとの位置に机を戻そうとすると、水谷がすっと机を持って、代わりに戻してくれる。そうやって、さりげなく気を遣えてしまうところに、胸が痛くなる。  きっと、わかっているはずだ。私が答えを出そうとしないことも、陸上競技場で交わした言葉も、私がずるいことも。それなのに、水谷は何も言わない。水谷が勇気を出して踏み出したそれを、見て見ぬふりをして、なかったことのようにしている。 「もう、いいから」  諦めたような声だった。机を置いた音が冷たく響く。一瞬、何について言われたのかわからなかった。 「無理に、考えなくてもいいから」  開けておいた窓から、夕方の風が生ぬるく教室に入ってくる。水谷はそう言って、自分の席にあったカバンを持つ。表情は見えない。 「じゃあ、また明日」  その一言が、こんなに寂しげだったことなんてなかった。教室を出ようとする水谷に、何か言うべき言葉があるはずなのに、声は一向に喉に出てきてくれない。その背中に、かける言葉が見つからない。  終わりなんだ、と思った。もういいから、無理に考えなくてもいいから。そうやって、誰かのことを気遣って優しい水谷のことを、私は知っている。いや、知っているより先に、あることがわかる。誰かは気付かないそれを、私は気付いたまま、それを見ようともせずに、どこかに隠されている気がしている、違う何かを探していた。  私も帰る準備をしようと、開いていた窓を閉めようと歩き出す。すっと触れたステンレスの冷たさに、家のベランダに出る窓を思い出す。  そう、あることが、あることだけは、わかるんだ。  目を開いて、私は気付く。  頭では何も考えていないのに、足が動き出す。さっき、水谷が歩いていった入口に向かって、歩く。歩く。どんどん速くなる。足は止まらない。どんどん足は回転していく。何もわからない。けれど私は、わかっている。気付けば走っていた。  教室を出て、階段を駆け下りる。ひらりとスカートが揺らめく。手すりを触りながら、最大限の歩幅で段差を降りる。キュ、と上履きの音が階段に響く。踊り場で曲がって、ブレザーのリボンが跳ねる。息が荒くなっていく。はぁ、と口から漏れて、足音と、胸の真ん中がキュウと苦しくなる感じと、同期していく。  私はずっと、走るということがどういうことかはわからないのに、走ることはできていた。走ることはわかるよりもずっと前から、私の中にあるものだ。そうやって、考えれば考えるほどわからなくなるようなものが、世の中にはある。  子どもだから知らないとか、大人だから知っているとか、そういう話じゃない。その、誰もがわかっているはずのものは、本当はわからないもので、でもずっと自分の中にあるからこそ、わかっているような気になっているだけだ。私もわかっているような気がしていた。けど、わからない。わからないんだ、本当は。考えてみたって答えのないものを、何回も、何回も、探していた。  水谷への思いだって、きっとそうだ。考えて、わかるだろうと思っていた。けれど、考えても、思ってみても、自分にあるはずの水谷へ伝えたい思いはわからなかった。言葉にできなかった。わからなければ、伝えるべきじゃないと思った。押し込めて、抑え込んで、いつかなくなるんだろうと、知らないくせにわかったふりをした。  違うんだ。きっとこの先も、ずっとわからない。けれど、わかることだってある。  小さい頃に一緒に遊んだことが、楽しかった。雪江さんが亡くなったとき、一緒になって泣いてくれた。強がって誰かを傷つけないようにしていることも知っている。私のことを見てくれていて、大切に思ってくれる。話さなくなってからだって、どこまでもストイックに部活に取り組む姿も知っている。私がつらいときにかけてくれた言葉だって覚えている。誰よりもかっこよくグラウンドを走り抜ける姿を、私は知っている。  ずっとあったものだ。わかるわからない以前に存在していた、その気持ちを私は見つけた。あることを信じようと思えた。  見慣れた後ろ姿を見つける。階段を上っていくその背中を見て、さらに息が苦しくなる。呼吸が難しくなる。これまでどうやって息をしていたのかわからなくなる。きっとこれは、見つけた痛みだ。誰もがわかったふりをして、痛くならないようにする。わからないことを認めた瞬間に生まれる、胸が締め付けられるような痛みなんだ。 「水谷」  声になったか、なっていないかわからないくらいの声で、名前を呼ぶ。声に気付いたのか、階段を上り終えた水谷は立ち止まる。 「水谷!」  出せる力を振り絞って叫ぶ。水谷は階段の上でこちらを振り返る。  階段の下で、私は走っていた足を止める。息を整えるために、息を大きく吸った。膝に手をついて、急に動いた身体を落ち着かせる。 「大丈夫か?」  水谷がこちらに歩いてきそうだと思って、右手でそれを止める。息を吸って吐いた後、顔を上げて水谷を見上げる。 「なんかあった?」  そう不思議そうにこちらを見る。まだ夕日にならないまでも、傾いた日が眩しく水谷を照らしている。軽そうな髪の毛に、寝癖のようなはねを見つける。奥二重の目が、こちらを見ている。  何も言わずに私が見ていることに、水谷は間に耐えられなかったのか「どうしたんだよ」と軽く笑った。その笑った顔が、これまでになく私を苦しめる。そんな顔をずっとしていてほしい。あわよくば私の近くで、そうやって笑っていてほしい。  とん、と一回胸の真ん中を叩く。私の中にずっとあったその気持ちを確かめる。大丈夫、ここにちゃんとある。 「あのね」  階段に足を差し出す。整えたての呼吸が荒くならないように、ゆっくりと歩き、上っていく。  傾いた日差しが私の顔も照らして、眩しかった。
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