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 昇降口でいつものように挨拶をして部活が終わる。今日は凛たちが最後までいたので、これからどうしたいかを聞いた。曖昧な返事をされたことを思い出し、みんなには聞こえないように息をついた。  考えていても仕方ない、早く帰ろうと気持ちを切り替える。今日はスーパーに寄ってからじゃないと、今日の夜ご飯に必要な醤油と卵がない。急いで帰ろうと荷物を持ち、昇降口を出る。 「佐野ー」 「ごめん、急いでるから」  水谷に声をかけられたものの、そう返して上靴から靴に履き替える。  急ぎ足で校庭を通り抜けようとしていると「佐野さん」とまた声をかけられる。今度は誰、と思いながら声がした方を振り返ると、普段話すことがない野球部の伊藤くんだった。 「どうしたの?」  そう返すと、伊藤くんはこちらへ走り寄ってくる。ユニフォームが土で汚れていて、練習が大変そうだなと思う。 「陸部もう終わったの?」 「うん」 「部室の前、まだ荷物置いてたからまだだと思ってた。部室に入れたほうよくない?」 「え?」  今日、最後に片付けをしに行ったのは凛たちだったはず。顧問の先生を呼びに行かなければいけなくて、私は一緒に行けなかった。 「教えてくれてありがとう。ちょっと確認してくる」  伊藤くんにそうお礼を言い、走って部室へ向かう。部室の前に、凛たちが運んでくれた用具が置いてある。  考えて、職員室を出るときに見かけた部室の鍵を思い出す。部活が終わってから凛たちと少し話したので、片付け自体が他よりも遅くなってしまった。そして最近は、凛たちが片付けをすることが少なかった。とすれば、他の部員たちが片付けた後、部室の鍵を閉めてしまって、先生を呼びに行った私とうまくすれ違ったために部室の鍵を戻してしまった。鍵が閉まっているから、凛たちはそのままにしておいた、ということだろうか。  じゃあなんで凛たちは私に一声かけてくれなかったのか。部室空いてなかったからそのままにしたよ、その一言で部活終了前に片付けることができたはずだ。なんで、という言葉が頭にたくさん浮かぶ。とにかく早く片付けなければと思い、来た道を戻る。頭の中が混乱している。早く買い物に行かなきゃ、早く帰ってご飯を作らなきゃ、早く帰らないとおばあちゃんの送迎時間に間に合わない。間に合わなきゃ行けないことはないと思うけれど、何となくそうした方がいいように思えた。 「どうした?」  昇降口と校庭の間のところで、水谷とすれ違う。当然だ。帰る方角が同じだから、道を戻れば鉢合わせる。 「ごめん、なんでもない。忘れ物しただけ」  答えるのも面倒で、立ち止まらずに歩き続ける。「佐野?」と聞き返された声は呼ばれていると脳が認識せず、耳をすり抜ける。様子がおかしいと思ったのか、水谷は追いかけてきてまた声をかけてくる。 「大丈夫か?」  そう聞かれて、うん、と小さな声で呟く。そしてもう一度、水谷に聞こえる声で「大丈夫」と返す。顔を見ることはできなかった。混乱した頭で立ち止まると、どうすればいいかわからなくなる。部室の鍵を借りにいけばいい。けれどそれだけで済む問題なんだろうか。早くしないと。頭が動いているのはわかるのに、考えることはできていない。  その場で動けずにいると、水谷は私の近くまで来て顔を覗き込む。それに気付いて、私は水谷の顔を見る。よく見慣れた顔なのに、心配そうな顔は全くの別人みたいだ。ぼんやりと雪江さん――水谷のお母さんの顔を思い出しながら、私は息を整えた。 「部室の前に片付け終わってないものが置いてあるから、片付けないといけないの」 「でも今日は早く帰るって言ってただろ」 「もうみんな帰っちゃったし」 「じゃあ俺がやっておくから」 「一人で片付けさせて足悪化したら嫌だよ」 「もう治ってるって」 「治りかけが一番油断しやすいんだよ。私がやっておくから、水谷は帰りなよ」  そう言い合っていると、部活終わりの生徒に見られていることに気付く。水谷から目をそらして、また明日、と返す。  職員室で部室の鍵を借りて、また同じ道を戻る。今日で何回ここら辺を行き来するんだろうと少しうんざりしてしまう。部室の前に着くと、水谷が立っていた。 「帰っていいって言ったのに」 「手伝うくらいはいいだろ」  鍵を開けて、外に出たままの用具を二人でしまっていく。ウォーミングアップで使ったもの、コーンなど、片付けること自体は大変ではない。だけどさっき感じたもやもやする感情が消えない。 「鍵閉めた後に片付けに来てたんなら、言ってくれりゃいいのにな」  そう呟いた水谷の声は無視してしまった。なんて言えばいいのかわからずにいると、片付けが終わった。 「鍵は俺が返しておくから」  右手を出されて、少しの間水谷と目が合う。治りかけとはいえ、足を怪我していた人に頼みごとをするのは気が引けた。けれど、水谷は引き下がらない気がした。一瞬目をそらしたとき、前に見た鏡に映った自分の顔を思い出す。きっとあの私の顔を、水谷は見ている。すぐに目線を戻し「ありがとう」と言って、手に持っていた鍵を渡した。  部室は夕方であることも相まって暗く静かだ。他の生徒もいない。静けさが二人がいる空間にこもる。部室を出ようとするとき、ふと水谷が口を開いた。 「急いで帰って怪我しそうだな」  すっころぶなよ、と含んだ笑いをしているのが、見なくてもわかる。小学校の下校のとき、水谷の前で盛大に転んだことを思い出して、恥ずかしさ半分で笑ってしまう。 「もう嫌だよ、あんな思いするの」  私が少し笑っても、水谷がいつものように笑っていないことに違和感を覚えて、後ろを振り向く。私よりも少し高い背丈。学校指定のジャージは少しきつそうだ。夕方になってもわかる寝癖の感じで、いつもの水谷だとわかるのに、浮かんでいる表情は普段と少し違った。真顔でも口角が上がったように見える口をしているのに、口元に笑みは感じられない。目力のある奥二重の目がこちらを見ている。心配しているようでも、怒っているようでもない。この目をどこかで見たことがあった。たぶん、陸上の練習をしているときだ。校庭で練習していて、少し目線が交錯したときのあの瞳だった。 「また明日な」 「うん、ありがとう。またね」  そう言って、帰り道を速足で歩く。これからどんどん夏になるのに、まだ夕方の風は冷たかった。
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