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3
その日の夜、なんとなく部屋の中に居たくなくてベランダに出た。窓が滑る音がして、ベランダに裸足で出ると、コンクリートの床が冷たく足がひんやりとする。春だけれど、夜はまだ寒い。息をついても白くはならないくらいの冷たさが、夏に向かうことを知らせてくれる。
スマホをつけると、新着のメッセージが届いている。ロックを解除してみると、水谷からだった。『英語の予習ってどこから?』という一文。今日先生が言っていたのを聞いていなかったのだろうか。二十三ページから、と打ち込み、紙飛行機のマークをした送信ボタンを押す。その直後、ピコン、と独特な音が鳴る。自分のスマホから出た音ではなかった。思わず「水谷?」と声が出る。
「佐野?」
緊急時には突き破ることができると書かれた、突き破れなさそうな壁越しに声が聞こえる。その後、吹き出したような声がした。
「佐野家なのにわかんないか」
「確かに。水谷家なのにね」
水谷のお父さんに話しかけたわけではないことがわかって安心する。
「英語の予習、今日言ってたじゃん」
そう言うと少しの間の後、「聞いてなかった」と言われた。顔が見えない状態で聞く水谷の声は、なんだか大人びて聞こえる。
「なんで外にいんの」
「別に。……そっちこそ」
「別に」
私の言い方を真似る。スマホを閉じて、空を見上げる。晴れた空には星が輝いていた。今日は月明かりが強くないらしい。
「星座見てた」
そうきちんとした返答があって、少し驚く。
「星座?」
「小四のとき、星座早見表もらっただろ」
「くるくる回すやつ?」
「そうそう。それで見てた」
「そういえば水谷、毎日自由帳に描いてたもんね。見えた星座とか、星座の形とか」
「なつかし! 忘れてたわ」
「忘れらんないよ。毎日見せられてさ、私も星座覚えちゃってたもん」
「ちゃんと聞くからだろー」
「今日は何が見えるの?」
「んー、俺のイチオシはやっぱうみへび座かな。でっかいし」
「イチオシって」
そう笑いながら、手すりに体重を預ける。空を見上げても、白い点があることしかわからない。どれがうみへび座だろうか。探している間に、ふとその星座の名前が引っ掛かる。
「雪江さんがはじめて教えてくれた星座、うみへび座だった気がする」
「マジで?」
「うん。春の星座の絵本読んでくれたよね、幼稚園の頃」
「あー、覚えてないけど、覚えてるかも」
どっちだ、と笑うと、水谷も笑いながら答えてくれる。
「俺は死ぬほど聞かされたからな。星座絵本シリーズ。今考えると、あんな話子どもに聞かせんなって思うわ」
笑いながら、どこか優しい声。水谷が雪江さんの話をするときは、こういう声になる。
「うみへび座の話も覚えてるの?」
「えー。確か、孤独な蛇の話だったかな?」
「孤独な蛇かぁ」
「いや、頭が九個ある蛇の話か? もうわかんねぇわ」
「それ結構違う話じゃない? でも頭九個もあったら、孤独にもなりそうだけど」
「それはある」
会話のテンポがいつもより速い気がする。いつもなら耐えられる間も、今は少し気にしてしまう。思わず、ヒロと呼んでしまいそうになる。
「どれがうみへび座かなぁ」
「全部二等星だから見づらいんだよ。あれだよ、あれ。つってもわかんねぇか」
壁の向こうで指を指してくれているのかなと想像する。なぜ水谷は手すりの方に来ないのか。そしたらわかるのにという気持ちと、手すりの方に来てしまえばこんな風に話せなくなってしまいそうだから来ないでほしいという気持ちが混ざる。顔も姿も見えないから、こんな感じで話せているだけなんだろう。
小学校の頃は、こんな感じだったと思い出す。ヒロ。ハル。そう呼び合った。しょっちゅう互いの家を行き来した。雪江さんに読み聞かせをしてもらったし、共働きの二人が帰ってくるまで水谷をこっちの家で預かっていたこともある。小学校に上がっても、よく二人で遊んだ。焼き芋屋さんの焼き芋が高くてビックリしたのも、駄菓子屋で十円ガムの当たりが出た方が勝ちという耐久勝負をしたのも、小学校のときだった。
けれど、雪江さんが小四のときに亡くなって、小学校高学年に上がると少しずつ会話が減っていた。女子は女子で、男子は男子で話すことが多くなっていたからだ。それでもまだ仲が良い方だった。
中学校に上がってクラスが変わると、全く話さなくなった。このまま話さなくなっていくんだろうなと思っていたのに、二年の秋頃から、陸上部の部長と副部長になったこともあって話しかけられることが増えた。水谷が怪我してからは話しかけられない日がないくらいだった。家が近いことを利用された内容がほとんどだったけれど、他の人にも頼めそうな内容もあった。そのことが、どういう意味なのかを考えない年頃じゃない。小学生の頃一緒にいたときとは違う。それと同じように、周りの人の目も違う。だからこそ、こんな感じで外でも話していたら、誤解を生んでしまう気がした。私はわざとそっけなくしていたんだろうな、と他人事みたいに思う。それ以上のことを考えようとして、やめる。考え事を増やしたくなかった。
「もう寝ようかな。水谷も早く寝なよ」
手すりから離れ、部屋に戻るドアを開けようとする。「あ」と声が聞こえて、ドアを開ける手を止める。
「これ、あげる」
手がにょきっと出てくる。私がその手の下に手を広げると、ぽん、と何かが置かれた。
水谷の手が戻り、それが何なのかを確認するために手を広げる。十円ガムのハズレの紙だった。
「ゴミじゃん」
「だって俺、ハズレしかでねーもん」
「ならガム本体くれるとか」
「もうねーよ。俺の口の中に入ってるやつだったらあるけど」
「絶対やだ」
そうやって私が拒否すると、水谷がカラカラと笑った。
「ハズレの紙持ってると、不幸を吸ってくれるらしいよ。だから幸運のお守り」
知らねぇの? とおどけた声が聞こえる。そんな噂を聞いたことはなかった。けれど、こういう意味不明な行動を取るのは、水谷なりの気遣いなんだろうというのもなんとなくわかる。陸上部でいろいろあったし、早く帰らなきゃ行けない日に遅れたことにもやもやしていた。そういうのをたぶん、今日引き留められたときに見透かされたんだ。
私はそのハズレの紙を握りしめて、ありがとう、と声を出した。その声はあまりに小さくて、隣には聞こえないような気がした。けれど「どういたしまして」と声がして、こんな小さな声でも拾ってくれるのかと驚く。ベランダで話すと響くからだろうか。
「おやすみ」
そう言うと、壁越しに「おやすみ」と声が聞こえた。
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